第109話 忘れられた名前
王家の歴史が一人の男を狂わせた。忠臣の皮を被り、遺児でしかない少女を王位にまで近づけてまで、彼が果たしたかった望みとはなんだったのか、シリウスは問い続けた。
「———王家の作った歴史? どういう意味だ」
泥ネズミと同様にアイギアロスへの行いの被害者だと言いたいのか。
そうすれば事態はもっと単純だった。だがそういう影はない。そしてシリウスが言い当てられぬと分かったディックは静かに目を閉じた。
「真実を分からぬまま、無垢な子どものまま玉座に座り続けることです女王陛下。それがあなたへの罰となります。さあ、先王と同様、悪事を葬ってください。それで女王の治世が始まるのです」
「………」
いくら問い詰めても、恐らくは拷問をしてもこの男は真実を語ることはしないだろう。
この場での問答はこれで終いだと、シリウスが諦めかけていた。
―――どうして。
エミール。
亜麻色の髪を靡かせ、本当にそこにいるかのように佇む姿にオスカーは息を呑んだ。
ガゼボの外から彼はゆっくりと歩き、オスカーの前を横切り、レイニー・ディックの傍らに立った。
勿論、オスカー以外には見えていない。幻覚だと分かっていても、彼はそこにいたかのうように振舞う。
エミールの正体や魔術について逡巡する暇もない。彼はいつまでもそこにいるわけではないとオスカーは直感していた。未来のことを少しでも話そうとする時、彼は決まって現れて、役目を終えれば蜃気楼のように姿を消す。
エミールは自分の胸元をとんとんと指先で叩き、オスカーに何かを伝えようとしていた。
「スカイ、グレーの………」
「スカイグレーの瞳の、女性をご存知ですか? レイニー・ディック候」
「————っ」
初めて、レイニー・ディックは激しく動揺した。怒りではなく、驚きと悲しみに満ちた表情になり、そしてそれは彼にとって最も触れられたくないことなのだと、その場にいる誰もが理解した。
「御伽話が好きで、彼女はいつか神の庭を見たいと、僕に教えてくれました。その女性をあなたはご存知なのではないですか?」
レイニー・ディックはオスカーを見つめ続けた。睨んでいたのではない。オスカーの口から語られる言葉を逃すまいとする捕食者のような目つきだった。
「あなたは自分の娘をクリスタル家に養女にした。王へ嫁がせるための妙齢の娘がクリスタル家にはいなかったから、理由は分かりませんがあなたはその要請に応じた」
そしてその事実も抹消された。
王家の力によって改竄、抹消され、その事実はどこにも残らなかった。
「復讐のためにクリスタル家に火を放った。口留めのためにホーソン家を利用して。違いますか?」
「…………」
目の前の男は答えない。いや、答えられなかった。詰め寄るオスカーを否定する言葉を持たなかったからだ。
そしてオスカーの心臓の痛みは消えた。
エミールは頷き、再び姿を消した。
「トリシャ・クリスタル。それがあなたの娘ですね」