空振り
7月。夏は、あまりにもあっけなく終わりを迎える。基本的には、球児たちの輝ける時間は極めて短いとされている。3年間辛い練習に耐え忍び、たった一度の夏に青春のすべてをかける。そして、その大部分が憧れの舞台の甲子園の土を踏むことなく消えていく。なんて効率の悪いイベントなのだろうと僕は内心、自嘲気味に嗤う。"最後に笑うことができるのは日本で1校だけ"そんな言葉を聞いたことがある。確かにそうだ。甲子園に優勝し日本一になるもの以外は、いずれどこかで誰かに敗れて悔し涙を流してユニフォームを脱ぐことになる。プロ野球に負けないくらい高校野球がこの国で人気があるのはそこにあるただの一度だけの"ドラマ"を期待しているのだろう。
正直、どこかで全部勝って甲子園に行けるだなんて思ってみたこともなかった。注目するほどの選手もいないような弱小、よくいっても中堅の公立高校だ。大方の予想は2回戦敗退。例年の成績を見ても大化けするほどの期待はされていない。しかし僕たちは下馬評を覆し、ここまで来た。ここまで"来てしまった"という表現の方が適切かもしれない。県大会決勝のラストイニング。スコアボードには互いに3の文字。格上の強豪校相手にシーソーゲームをここまでやってのけたのである。9回裏。「ツーアウトー」相手のキャッチャ―が指を二本立てて叫ぶ。ランナーは2,3塁。マウンド上では自分よりも一回りも二回りも大きく見える相手の投手が肩を上下し袖で汗を拭う。先のイニングで力を使い果たしたピッチャーの打順が回ってくる。疲れてはいるが、彼をバッターボックスに送るのが妥当であろうと僕は思った。代打でコールされたのは自分だった。お世辞にも他の選手より優れているところなんて何にもない。万年ベンチでも退部せず続けた僕に対しての監督の恩情なのかもしれない、そんなことを思いながら打席に向かう。バッターボックスに入る前にバットを軽くスパイクに当てて砂を払う。大きく屈伸しバットを構えてマウンドを見上げる。大きなモーションから投げ下ろされる速球。スタンドからはブラスバンドの音が鳴り響く。ミットに収まるボール。手が出せなかった。緊張で口の中が乾く。軽く汗を拭う。ベンチを一瞥するが、監督からのサインはない。怖い。逃げ出したい。打席に立っていられない。かろうじて絞り出した気力でグリップを握りなおす。二球目。先ほどと同じコース。大振りフルスイング。全く、難儀なことだ。振り遅れたバットになどボールは掠りもしない。一打でサヨナラである。そんな妄想もかき消される。
3年間頑張ったとは言える。でも、それも人並み程度であることは否定できない。体格では見劣りし、センスもあまりない、でも人一倍努力をするほどできた人間でもない。そんな自分だから、そのまま同級生との実力の差は埋まることなく今日まで来てしまった。もし、過去に戻れるならもっと筋トレや素振り、バッティングセンターに通うだろう。そして、今この瞬間、この球場で甲子園へ導くアーチを描くのだ。今更だが、そう思う。しかし、もう間に合わない。一度きりの真剣勝負に「もし」なんてないのだ。もう応援の声も聞こえない。心臓の鼓動が早鐘のように打っている。ああ、相手もこんな感じなんだろうな。ぼんやりと思う。少しの間の後3球目が投じられる。ストップモーションのようにボールが手から離れてこちらへ向かってくるのが見える。渾身の力で僕はバットを振る。当たれ、と願いながら。先ほどとコースは同じ。真ん中やや低めのボール。当たると思った刹那、ボールの軌道が下がる。自分の振ったバットの下をボールが潜り抜けていく。体勢が崩される。落差のあるフォークボール。ボールは小さく地面でワンバウンドしミットに収まる。無情にもストライクがコールされる。
僕はバットを投げ捨て、走り出した。誰よりも早く。駆け抜けていく。「今」自分にできることを達成するために。過去を振り返るのではなく、今のベストを尽くすために。自分の夏を終わらせないために。駆け抜けた27.431m。その間だけ、僕は間違いなく世界で一番輝いていた。僕の3年間はこのためにあったのかもしれない。
僕は一塁ベースの上で拳を突き上げて叫んだ。