序章 (ほとんど)ハダカなのは韻紋遣いだからなのだ(ニャンコなのは関係ないのだ)
「──驚いたよ、《獣人》が《韻紋遣い》とはね」
大仰に眼を丸くした《彫紋師》のルシーナさんに、ボクは、にっこりと笑ってみせた。
「ご覧の通りさ。ボクはケモノの中でもハグレモノでね、血の気も薄ければ毛も薄いんだ」
「ちょっといいかい?」
ルシーナさんはボクの手をとり、手首から肩まで、すーっと腕をさすった。
「キメ細やかな、いい肌だ。その頭の上の三角耳と腰の尻尾がなければ、タダの人間と思っちまうところだよ。いままでおまえさんの仕事をしてきた《彫紋師》も、さぞかし刻み甲斐があったろう」
「それはどうも」
こそばゆさにボクは、くすくすと笑ってしまう。
ルシーナさんはボクの顔を覗き込むように見て、
「だけど、おまえさん。これだけ身体中が《韻紋》だらけだ。あとは、どこに刻もうってんだい?」
疑問に思うのも無理のないところだ。
ニンゲンでいえば南方人種に似たボクの褐色の肌には、手の甲から肩まで、足首から太もものつけ根まで(足には短靴を履いている)、首から胸元から腹まで、そして背中一面に、楔に似たかたちの呪術文字──《韻紋》がびっしりと刻まれて、蝋燭の焔のように、ちらちらと煌めいている。
そのためにボクは商売女と変わらないような、ほとんどハダカという格好だった。衣服と呼ぶのも憚られる黒革の切れ端で、乳房の先と腰回りだけを覆っている。
《韻紋遣い》なら女でも男でも、だいたい似たような姿なのだけど。
《韻紋》は魔法の呪文を我が身に刻むことで詠唱を省略し、速射や多重発動を可能にするものだ。たとえば最大威力の火焔と疾風の魔法を同時に放って敵を二、三十人まとめて丸焼きにするような、えげつないことを「やろう」と思った瞬間にできてしまう。
しかし術を発動すれば、対応する《韻紋》が熱を放つ。普通は《韻紋遣い》自身が苦痛を感じることはないけど、迂闊に服など着た場合は別だ。生地が燃え上がり、火傷をすることになる。
だから《韻紋遣い》は半裸で当たり前で、肌に刻んだ《韻紋》のおかげで他人の眼にもボクらが何者かは明らかだ。酔狂でハダカでいるわけではないことは、わかってもらえるだろう。
あとは当人がどう思うかだけど、この姿に恥じらいを感じるようなら、そもそも《韻紋遣い》になどなりはしない。
そんなわけでボクはいつも通りの姿で、この《双塔の街》まで旅をして来たのである。
評判高い《彫紋師》である、ルシーナさんを訪ねるために。
見た目はタダの恰幅のいいオバサンで、商家や職人の工房で「おかみさん」と呼ばれているほうが似合いそうなヒトなのだけど。
ここはそんな彼女の仕事場だった。一階で革細工師が工房を構える煉瓦造りの三階建ての屋根裏である。広さは充分にしろ頭上は窮屈で、何本か渡されている梁の下は小柄なボクでも腰をかがめなければ、くぐれない。
それでも天窓のおかげで採光は申し分なかった。この街の特産品とはいえ高価な硝子が贅沢にも填め込まれている。さらに室内の中央を占める施術台の周囲には燭台が並び、作業中の《彫紋師》の手元に影を作らないよう配慮してある。
ヒトの肌に《韻紋》を刻むというのは繊細な作業なのだ。綴りに誤りがあっては取り返しがつかない。
ボクは、にっこり笑顔で胸を張った──というより、背を反らして腰を突き出してみせた。これから「刻んで」もらいたい場所を示すように。
「大事なところが残ってるよ。おへその下──丹田のあたりさ」
「おやおや」
ルシーナさんは苦笑いして、ボクの手を放した。
「そんなところにまで刻んじまったら、いったいどんな下穿きを着けることになるやら」
「だけど、ここが魔力の源だよね。とっておきの《韻紋》のために、いままで何も刻まずにおいたんだよ」
「そんな大事なものを刻ませてもらえるのは光栄だね。身体中に隙間もないほど《韻紋》を背負って、見事に全部が『生きて』いる。おまえさんは相当の《韻紋遣い》だろう。それでいったい、今度は何を刻もうってんだい?」
「これだよ」
ボクは足元に下ろしていた雑嚢の口を開け、丸めて突っ込んでおいた羊皮紙をとり出した。
くるくると広げて、ルシーナさんに手渡す。
「……こいつは……」
ルシーナさんは、ぽかんと口を開け、羊皮紙に記した《紋》の下絵とボクの顔とを見比べた。
ボクは、にっこりと彼女に笑いかける。
「これは、あなたじゃなきゃ無理だろう。こんな難儀な仕事を引き受ける度量があって、しかも成功させる技量を持った《彫紋師》は、ほかにいない」
「これは一語も違わず、この通りなのかい? これがホンモノだと、どうしてわかるんだい?」
真顔になって問うルシーナさんに、ボクは、くすくすと笑って答える。
「間違いなく本物だよ。とある場所に眠っていた大昔に滅した誰かさんが刻んでいたものをボクが自分の眼で確かめて来たんだ」
「こいつは《灼銅龍》の《紋》だね、そうだろう? その最後の遣い手だったドゥレニフスの墓が『トカゲの巣』──つまり《蜥蜴人》の居留地にあるってのは、よく知られた伝承さ。奴らと戦争する覚悟でもなければ真偽の確かめようはなかったけどね。なるほど、《獣人》のおまえさんだから、そこに立ち入れたってわけかい」
「ボクだって簡単にはいかなかったよ。彼ら、ふさふさした尻尾は嫌いなんだ」
ボクは尻尾を揺らしてみせた。ふさふさの銀色の尻尾はボクの自慢だ。
ルシーナさんは、はあーっと深く息を吐いた。
「まったく難儀な仕事だね。おまえさんが《人龍》に化けるのに手を貸せと」
「誰にも迷惑かけるつもりはないよ。ボクはただの冒険者だもの。盗賊とか殺し屋みたいなロクでもない《韻紋遣い》も世の中いるけど、ヒトの眼を盗んで何かするなんて性に合わない。悪いことには使わないよ」
「その心配じゃないよ。刻んだ《韻紋》の使い道を気にしたってキリがないからね」
ルシーナさんは、また深々と息を吐いて、
「おわかりだろうけど《装龍紋》は、《唯一神》信仰の広まったいまの世の中では《禁呪》とされてる。ニンゲンを《神》の似姿だと説く《唯一神》の教えでは、ヒトがその姿を捨てて《龍》に化けるなんて不敬極まりないって話になるのさ」
「でもボク、《獣人》だし。どうせ《唯一神》の救いの対象からは外れてるもの」
くすくすと笑うボクに、ルシーナさんは眉をしかめ、
「こっちは不敬に手を貸すことになるんだよ。でも、ウチで断ったところでおまえさんは、よそを当たるだけだろうね」
「あなたほどの腕のある《彫紋師》を探すのは骨が折れるだろうけど、そうするしかないね」
「腕がいいだけなら、ほかにもいるさ。だけど、こんな難儀な仕事を受けようってのは確かにウチくらいだよ」
「引き受けてくれるの?」
「そのつもりで来たんだろう? たとえ不敬を犯しても、この仕事を逃したほうが後悔するだろうさ。ウチにとっては信仰心よりも《彫紋師》としての意地のほうが上に来ちまうんだ」
「よかった。実のところ、ほかの《彫紋師》のアテなんてなかったから。ボクは《韻紋遣い》になってからずっと同じ《彫紋師》に仕事を任せてきたんだ。《獣人》のボクにも分け隔てなく接してくれるありがたいヒトだったけど、この仕事だけは受けてもらえなかった」
「差し支えなければ、どこの誰だか教えてくれるかい?」
「《白砂の街》のフェゼーノンだよ」
ボクが答えると、ルシーナさんは首をかしげ、
「《王国》領の南の海沿いの街だっけ? でもその《彫紋師》の名前は聞かないね。ただいま売り出し中ってところかい?」
「もういい年をした爺さんだよ。偏屈だから流行ってないけど」
「そうかい。おまえさんに刻んだ《韻紋》を見れば相当な技量だ。これで無名なのは、よほど仕事を選り好みしてるのかね。そんな頑固者でもずっとおまえさんの面倒を見てきたというなら断った理由も想像がつく」
うなずいているルシーナさんに、ボクはたずねてみる。
「どうして断ったんだと思う?」
「本人からは聞かなかったのかい?」
「《禁呪》だから刻めないって、それだけだよ」
「それがそのまま理由だろうさ。《装龍紋》なんて刻んだら、自分は《神》に背いたと公言してるようなものじゃないか。もちろん世間の一般人には《韻紋》を読み解く知識なんてないけど、わかるヤツにはわかるからね。《唯一神》信徒の集まってるところには近づかないことだよ。《異端審問官》にでも睨まれたら厄介だ」
ルシーナさんは腕組みをして、
「おまけにそれこそ盗賊や殺し屋稼業の魔道士連中にも狙われるんじゃないかい? 大昔に忘れ去られたはずの《装龍紋》が、おまえさんの身体に刻まれるんだ。どうにかして写しをとってやろうと考えてもおかしくないさ」
「そこは覚悟の上だよ。でもフェゼーノンもボクを心配してくれたなら、どうしてそう言わなかったんだろう?」
「言ったらあきらめたのかい、おまえさんは?」
「まさか」
ボクが首を振ると、ルシーナさんは笑って、
「そういうことだよ。それをフェゼーノンってヒトもわかってたのさ」
「最後は頑固ジジイって怒鳴りつけて飛び出して来ちゃったんだ。フェゼーノンに悪いことしたなあ」
「頑固者はお互い様だろう。まあ、いいさ。フェゼーノンさんに敬意を表して、ウチは精一杯の仕事をさせてもらうよ」
「よろしく。この街のヒトたちが実際どう思ってるかは知らないけど、《共和国》の友邦であるおかげで、ここには《禁呪》も禁書もない。ありがたいことだと、よそ者のボクは思うよ」
「《大神官》が街を支配していた頃よりは暮らし向きがマシになったのは確かだね」
ルシーナさんは両手を腰に当てて胸を張り、
「さて、決まりごとだから言っておくけど、刻んだ《韻紋》が魔力不足で『死んだまま』だったとしても、ウチはお代を請求させてもらうよ。おまえさんなら、そんなみっともないことにはならないだろうけどね」
「もちろん。ボクは超一流の《韻紋遣い》だから」
にっこりとするボクに、ルシーナさんは肩をすくめる。
「そう言うだろうと思ったさ。さあ、施術台に寝ておくれ。下はすっぽり脱いじまってね」
「はーい」
ボクは腰回りを覆う黒革の端切れに手をかけて、くすっと笑い、
「ホントのこと言うと、あなたに仕事を任せたい理由は腕前だけじゃないんだ。いちおうボクもメスのニャンコなんで、こんな際どい場所への《韻紋》は誰にでも任せられるわけじゃない」
小首をかしげ、
「まあ、フェゼーノンは別だけど。あれはもうボクがチビニャンコの頃からのつき合いで、いまさら隠すものなんてないからね」
「そこまでの仲だったヒトを差し置いて、とっておきの場所への《韻紋》をウチが刻むのは、ちょっと心苦しいね」
ルシーナさんは苦笑いで言った。




