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かおす 第一楽章  作者: ひのとげ
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9 そら

 リンはヘルメスの元へ居を移すため、荷物の整理をしていた。


 これから新しい生活が始まる。一体どんなところだろう。どんな生活が待ち受けているのだろう。リンは近い未来に思いを馳せ、期待と想像を膨らませていた。




 気が付けば日はとっぷり暮れ、輝かしい想像の世界と窓の外の暗さとのギャップに今更気づき、リンは慌てた。ついさっきまで日はまだ東のほうにあったはずなのに。リンはこのとき初めて時の流れの速さを、身をもって感じた。「光陰矢のごとし」とはよく言ったものである。


 リンが慌てたのも無理はない。思いを馳せ、期待を膨らませるのに夢中で、脳から手への信号は不通の状態だった。光のごとく過ぎた時間に作業の進捗(しんちょく)は全く比例せず、部屋の様子は大して元と変わっていない。夜が明ければ長老の家で一夜を明かしたヘルメスが目を覚まし、この部屋まで迎えに来る。それに対し、今日見せたままの部屋に迎え入れ、「もう一日ゆっくりしていっては」と暖かい言葉を掛けるわけにもいかない。第一それに心を動かすような相手でもあるまい。結局リンは泣く泣く夜通しで作業をし、何も無くなった部屋と、眠気でいっぱいの頭でヘルメスを迎えることになった。


「本当に大丈夫か?まだ本調子じゃないんだろう。なんだったらもう一日ゆっくり寝ていてもいいんだぞ」


 リンはヘルメスの暖かい言葉に心を動かされるも何も答えず、重く圧し掛かる上まぶたを無理やりこじ開けながらヘルメスの横を素通りして止まり、早く行こうと意を示す。ヘルメスは少し肩をすくめ、足を進めた。


「ほれ」


 ヘルメスがリンに背を向けて身をかがめる。リンが眠気まなこをゴシゴシ擦りながらそれに応えて背中にしがみつく。そして二人は空へと飛び立つ。


 普段通りのリンならば、ここで己の愚直(ぐちょく)さに後悔したはずだ。飛び立てばいずれ着地することになる。昨日は確かその着地で気分を崩し、それが原因で寝込んでいたのではなかったか。しかし両手に自分の身体、背中に自分の荷物、そして頭に(あふ)れかえるほどの眠気を預けている今のリンには、そうして記憶と予感を材料に、リンを(かたど)った思考の奈落(ならく)を形成する余裕は無かった。


 ぼんやりと下界の景色を眺める。宿舎街(しゅくしゃがい)の屋根やねが織り成す赤色の幾何学文様。その隙間が作り出す空白には、点々と樹木が色を添えている。ほんの少し前方に目をずらせば、赤から黄へと色を変える。学舎(がくしゃ)だ。その中心には黄色い塔が見える。頂上に戴く文字盤のない巨大な時計が、急速に視界を埋め尽くしていった。


 リンはやはり、怖いとは思わない。空気の抵抗が無く、速度を感じられない為だろうか。恐怖が襲うことも、睡魔が逃げてゆくことも、どうやら無い。尾を縦に裂かれながら前方へ逃げようとする空気はしかし、時計塔の空虚な盤面に行く手を阻まれ、しぶしぶ散ってゆく。それに追い討ちを掛けるかのように、ヘルメスが勢いよく足を着いた。端正な装飾がなされたひし形の短針と長針は正確な時を刻んでいる。そこで二人は百二十度右へ方向転換し、再び空を目掛けて躍り出た。前方の赤い文様を反れ、現れたのは最近見たような緑一色の草原。だが一つだけ違う点を挙げるとすれば、この草の海には(まば)らに小高い木が立っている。その木が徐々に密度を増してゆきながら色を濃くし、やがてそれは森になった。


 しかしそれも長くは続かなかった。それはいつの間にか高度が落ち、それに伴ってスピードが数段上がっていたからだ。森が切れ、その先をリンが視界の端に捉えた。


 瞬間、リンの眠気は完全に吹き飛んだ。


「ヘルメス!空だ!地面に空があるよ!」


 芝草に覆われた大地を抉り、その中に白い雲を湛えた蒼穹をリンは見た。見たと思った途端、視界が反転した。ヘルメスが空中で体勢を変えてマントを(ひるがえ)し、そこに引っ付いていたリンを投げ飛ばしたのだ。


 ぽっかり空いた、「空」を目掛けて。


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