8 へるめすさま
「これ、リン!ヘルメス様とお呼びするのだ!」
長老は慌ててリンに訂正を促した。しかしリンにはわからない。どうして学園都市で一番年上で偉いはずの長老が、たかだか三十ちょっとのヘルメスに頭を下げなければならないのか。どうして他所から来た変な名前の男に、長老が敬語を使わなければならないのか。
「失礼いたしました、ヘルメス様……どうか、お怒りにならないでくださいませ」
「いいんだ長老。大したことじゃない」
それより、とヘルメスはリンに向き直り、もう一度、連れて行ってやると言葉を繰り返した。
リンは混乱していた。何もかもが分からない。そもそもヘルメスは一体何者なのだろうか。
そう思ったとき、長老が口を開いた。長老はどうやら、人の心の内を察するのが得意らしい。
「ヘルメス様はかつてこの学園都市を危機から救い、守護したといわれる偉大なお方だ。そして今も旅をしては学園都市を時々訪れて、我々に恵をもたらして下さる。いわば我らの守護神のような存在。お前が呼び捨てできるような御方ではないのだ。リン」
ヘルメスは苦笑いを浮かべる。
「いいんだって、長老。そんな誇大するような話じゃなかろうよ」
「誇大ではございませぬ!実際に先々代方は救われ、学園都市の存在も保たれたのですぞ!今の我々が在るのも、すべてヘルメス様のおかげなのです!」
リンは何となく黙って聞いていたが、長老の一言に何か妙な響きを感じた。
「せんせんだいがた?」
リンは自分の耳が捕らえた八文字を二・三度反芻した後、それを疑問の形で言葉に載せた。久しぶりに寝台のほうから聞こえてきた子供の声を敏感に聞き取って、長老は頷く。
「その通り。この学園都市は先々代方の時代に、核を破壊されかけたのだ。そこにヘルメス様が訪れて犯人を捕らえた上、“核壁”、即ち外敵から核を守る壁を生成し、二度とこのような事態にならないよう……」
「そんな難しいことより!おれが聞きたいのは、どうして先々代なんて昔にヘルメスが生きてるのかってことだよ!」
疑惑と混乱で顔を紅潮させながら問うリンに、ヘルメスは先ほど始まりかけていた論争に助け舟を得た思いで答えた。
「そうか。リンは子供だからまだ知らないんだな。リン、外の世界じゃ人は年を取らないんだぜ」
リンは珍しいものを見るような目でヘルメスを見た。ヘルメスはその好奇の光に満ちたリンの瞳を見返し、首を縦に振る代わりに噴き出してしまった。
からかわれたと思い、リンは今度は恥ずかしさと悔しさで顔を赤くしたのだが、ヘルメスが笑いながら漏らした言葉は、更にリンの予想を裏切った。
「じつは長老よりずっと歳食ってるジジイに対して、『オジサン、誰?』って笑っちまったよ、実際……」
笑い声に咳払いが重なったのを、黙っていたリンははっきりと聞き取った。その主の方を見ると、話の腰を折られて少し不機嫌そうな長老の顔があった。そのまま表情を変えずに白いものが混じった短いあごひげを一つ撫で、長老は大きく息を吸った。
「そろそろ本題に入りましょうか」
その声はケタケタというヘルメスの笑い声を吹き飛ばし、脱線した話を本線に戻すという二役をかった。そのお陰もあってか、それからの話はリンに完全な理解の余地を与えないほどのスピードで進んだ。終わってみると、リンは結局ヘルメスが初めから言っていた「連れてってやる」という言葉に従い、着いて行くことになっていたのだった。