78 かどで
目を開くと、そこには懐かしい顔があった。三年ぶりにあった、ヘルメスの顔。
「どうして……」
「いやな予感がしたんだ。心配になってな」
聞くところカリンはあれから三日ほど、目を開けなかったらしい。
「“かぜよみ”、習得したんだな。おめでとう」
「あれ、何で知ってるの?ムゲン先生から聞いた?」
「いや、ムゲンとは会っていない。あいつにはあいつの仕事があるからな――こうしてお前がここにいる。だから判ったんだよ」
理解できずにカリンは内心首を傾げたが、今、最も気にすべきことはそんなことではない。カリンはヘルメスに尋ねた。
「おれがここにいるってことは、ミラはどうしたの?」
そう言ったところでひとつの答えが頭を過ぎる。カリンは目を見開いた。
「まさか……ヘルメスが……」
ヘルメスはカリンの言葉に出てきた聞き覚えのない名前が例の少年を指しているのだと悟り、首を横に振った。
「いや、逃げた。俺の攻撃をものともせずにな。『ミラ』というのか。親しくなったもんだな。……辛いだろうな」
蘇る三日前の風景は鼻の奥を鋭く突き、目尻を濡らした。もうだいぶ前に枯れてしまったものと思っていたけれど、悲しみは尽きない。湖とは違い、涙は無尽蔵に流れ落ちるのだと知った。
「ミラ……どうして?友達だと思ってたのに」
語尾は涙に濡れてうまく発音できなかった。すすり泣くカリンの肩に、ヘルメスの手が置かれる。
「そろそろ行くか」
そういってヘルメスは少し奥へと進み、その低い天井を仰いだ。思えばここは見慣れたヘルメスの小屋ではなかった。確かに所々に、ヘルメスの小屋に在ったものと同じ色のランプが提げられてはいたが、それらの照らす壁は丸太ではなく土。ここは小さな洞穴だった。冷たい土の床に敷かれた襤褸のような毛布から身を起こし、あちらこちらを動かしてみてどこも痛まないことを確認すると、立ち上がってヘルメスの後についた。ヘルメスが天井の少し色の違っている部分に手をかけて横へ引くと、そこから空が顔を出す。ヘルメスに手を引かれて地上へと這い上がる。
空は灰色。雲がないので曇天とは言えず、ただ空が色を失って快晴とはいいがたい。その灰色はヘルメスの髪の色、そして、ミライの瞳の色にも良く似ていた。風は乾いて唸りを上げている。その風に髪をなびかせたヘルメスは、洞穴の入り口に蓋をした。その蓋は奇妙な格好をした、小さな白い岩だった。
もう一度空を見上げると、それは木々に切り取られて綺麗な円を描いている――ここはもともとヘルメスの小屋があったところだ。ムゲンがカリンの修行を見る際、殆どの時間をその岩の上に座って過ごしていたのを覚えている。三日前にも見たが、本当に跡形もなく消えてしまっている。崩壊したにしても、その破片がひとつも見つからないのは不思議だった。
「『救世主の誤算』か……今回ばかりはそんな生半可な言葉じゃ済まされねぇよな……」
「え?」
湖の前で呟いたヘルメスの言葉を聞き取れず、カリンは聞き返す。しかしヘルメスはただ首を横に振った。
「いや、なんでもない。それよりお前、この先どうするんだ?」
「どうするって……なにを?」
「夢だったんだろ?外の世界。叶ったじゃないか。で?お前はそこで何をしたいんだ?」
カリンは俯いた。外の世界への憧れ、それはとうに萎えてしまっている。とはいえ、そのことをヘルメスは知らない。それに学園都市無き今、カリンには外の世界へ出るより外に選択肢は無い訳で、事の次第を話すのも憚られ、どぎまぎしているうちに急いた気持ちが咄嗟にこんなことを口から滑らせた。
「ミ、ミラを探す!」
「だめだ」
「え」
「殺されるぞ?一度あの子はお前を殺そうとして失敗に終わってる。今度逢えば今度こそだ。きっとな」
滑って出た言葉ではあるが、それが出て来たのは、心のどこかで願望があったからだ。ミライを見つけてその後どうするかは別として、とにかく見つけ出したいという思いがあったからだ。その願いを頭から制止されればもう、次に出る言葉は見つからない。ヘルメスは続けた。
「それに、これは俺達の仕事だ。あの子は必ず俺が見つけ出す」
「何で?どうしてミラとヘルメスに関係があるの?それに俺『達』って何のこと?」
「いろいろあんだよ」
ヘルメスは詳細を伝えることはしなかった。世の中には知るべきことと、知らないほうが良いこととがある。これは後者の事柄だ。かつてカリンが石橋の上で見たものが「何」で、「いかなる意味」を持つものなのか――それもまた然り。
話も不完全燃焼のまま、ヘルメスは「またな」と告げて空へと消えた。
(外の世界――そこは完全な自由のある、恐ろしい世界)
――『もし希望を失いそうになったら、思い出しなさい。絶望の中にも小さな光がある、と』
亡き長老の言葉を胸にカリンは頷き、そして目を閉じた。強かった風はいつしか収まり、穏やかに流れている。もはや学園都市ではないこの大地を、カリンはたどたどしくも思い切り蹴った。
風に乗る。風になる。太陽はない。学園都市と共に消え去った。しかし、カリンの目には、一条の光が道を示している。
(恐ろしい世界だけれど、みんなこれを目指して旅立って、そこで生きていくんだ。目を瞑ってちゃいけない。いろいろ見れば、恐ろしいだけの世界じゃないはずだ)
それに、カリンには力がある。生きていくには十分な力がある。ムゲンはそう言った。
一縷の小さな光は次第に大きく、力強くなって――
その光を目指し、カリンは風になった。
小さなカリンの大きな門出。紅い軌跡が一線、誰もいなくなった空にいつまでも残っていた。
『かおす』第一楽章 完