77 しまつする
手ごたえは、あった。その手ごたえに、胸が痛んだ。ずきりという、重く鋭利な衝撃。
衝動に駆られての行動だった。しかし後悔の念は無い。不思議と、無い。それにもかかわらず目からは涙が止め処なく溢れる。何かを成すために何かを犠牲にするのは必然だ。それらの共存はありえない。何を成し、何を犠牲にするか――ミライは成すべきものに自分の命を選び、犠牲とするものに友達の命を選んだ。しかしそれを悪とするか?冷徹な人間だと見なすのか?自分が決めた犠牲に対して、涙を流す権利は無いと?自らの意思を全うした者に罰を――それを成し得る者は、少なくともこの世にはいない。銀色に輝く手で涙を拭い、地面を蹴る。その拍子で最後に残っていた石橋の欠片が儚い音を立て、崩れて落ちた。
曇っていた視界が晴れて初めて気づいた。カリンに向けて伸びていた「ハネ」の刃先。それに起きていた異変に。刃はカリンの身に届いていなかった。その三十センチ程度離れた位置で止まっていたのだ。いや、止められていたといったほうが正しい。カリンと刃との間に現れた壁によって。薄くて硬いその無色の壁は、刃の当たったところだけが白い傷になっている。近寄って触れてみると、冷たかった。
(コオリ……)
ひんやりとしたものが壁に触れた中指と人差し指を伝い、腕をゆっくりと上ってゆく。それが悪寒となって背筋を冷やすのを感じ、振り向くとそこには男が立っていた。男の額には歪んだ十字架。あれには見覚えがあった。
崖。火の海と水の海との狭間に据えられたあの崖で気を失い、目覚めた時には緩やかな弧を描く地平線が広がった赤い大地に一人。当ても無く歩みを進めていると、こちらに向かって何かが空を駆けてくる。目の前に降り立ったのは一人の女。
「おい。まだ子供じゃないか。どうしてこんなところに居る?」
声をかけた女の、剥き出しになった胸の上部の左側。鎖骨より少し下の位置に、同じものが刻まれていた。
男の額に刻まれたそれは、淡く、その両の瞳と同じ色の光を発し始めた。その青い光は鼓動のように一定の調子で明滅を繰り返している。
「やっぱり、ガイアの言ったことは正しかったか」
男がぼそりと呟いたその言葉の意味は取りかねたが、それと同じような内容なのだろう、彼は今度はミライにその鋭い視線を投げて言った。
「……お前を始末する」
悲愴の色が微かに見えるその声が耳に入るのとほぼ同時、ミライの体を何かが包んだ。水――だった。ミライは男の仕業であろう突然現れた水の球体に閉じ込められた。水はミライから体温を奪い、空気を奪う。そしてその重い抵抗によって身動きひとつとる事すらできない。
ミライを入れた金魚鉢はそのまま空を目指してゆっくりと上昇してゆく。空気も熱も無い水の牢屋の中、苦しみもがくことさえできずにただ沈黙を守りながら死へと向かう。そしてその屍も土に還ることすら許されず、永遠に空を彷徨い続けるのだ。まるで好物を舌の上で転がすかのように、苦しみを与えつつ徐々にその首にかかった紐を締めてゆく。これ以上残酷な方法がそう簡単に見つかるだろうか。
最大級とも言えるその罰はしかし、ミライには通用しなかった。上昇を続けてカリンの横たわる樹木の頂上付近にまで達した時、無色だった水球が急激にその色を変えた。水球の中に異物が現れた。茶褐色の粉状の物が、火山が噴煙を撒き散らすがごとく噴き出したのだ。それはもちろん男の意によるものではない。その証拠に、ミライを閉じ込めたはずの水球は異物に呑み込まれ、表面からぼろぼろと崩れ落ちた。落ちたその欠片は硬く、鼻に近づけると血にも似た臭気を帯びているのが判る。
水の牢獄は「錆び」た。前代未聞の出来事に、男も驚きを隠せずにいる。前代未聞――男の水球が崩れたことではない。勿論それもあったが、この世には「錆び」や「腐蝕」による物質の崩壊という概念自体が無いのだ。そうして時の流れに翻弄されるものは、この世において“インスト”を除く生物だけなのである。たったいま、その原理が壊れた。それは学園都市の崩壊によるものなのか、それとも「封印」が解けようとしていることを示す兆しなのだろうか。そのどちらかなのであれば、前者であってほしい。
崩れ落ちた水球は意味を成さなくなり、中にいたミライは「ハネ」を使ってどこへともなく飛んでいってしまった。
男はそれを追うことはしなかった。最盛期のムゲンをはるかに凌ぐその速さに追いつけそうもないと諦めたのもあったが、何よりカリンが心配だ。いまや完全に気を失っているカリンを抱え上げ、男は森の中へ入っていった。