75 ぎんいろのこども
街は予想以上に酷い有様だった。瓦礫の山岳には血の川が流れ、人の体が所どころに蹲っている。苦しみに呻く者、喪失に泣き叫ぶ者、そして、既に何の音も発さなくなった者――場所が場所なだけに犠牲者の殆どが子供だった。一瞬にして夢を絶たれた無数の命。夢と現実の差を知ることなく死に絶えたものが幸いだったか否かは別として、彼らをそう成さしめたのが、自分かもしれないのだ。カリンは眩暈に立ち止まる。以前感じたことのある絶望など、今となってはそれと呼ぶ事すら憚られる。死こそ真の絶望、どんなに小さな光も寄せ付けぬ、真の闇だ。
起因するものが多すぎて、カリンは吐き気を催した。必死に堪えて、学舎へ向かう。今は子供たちが勉強を終えて帰ろうという時分。学舎への長すぎる道のりの中、犠牲者の姿は絶えなかった。
学舎前。昔住んでいたカリンの部屋も勿論その欠片を散乱させているばかり。朱に近い赤色の屋根は血の色とも火の色とも似ている。少し歩けばそれが黄色へと変化した。学舎の敷地に入ったのだ。もとはそこに高い塀と門があったのだが、今は跡形もない。しかしカリンはきちんと門があったところから進んだ。位置は体が覚えていた。学舎の中にも大量の血が流れ、黄色い煉瓦に無造作な模様を描き出している。そしてその近くには決まって人が横たわっていた。
「カリン……か?」
言葉を用いずに苦渋を表す声が充満する中、カリンは自分の名前を聞いた。それは聞きなれた声だった。変わり果てた学舎の廊下の隅に座る声の主は、その姿を変えてはいなかった。カリンは驚きと同時に安堵した。
「長老!」
「カリン。無事だったのか。よかった」
「長老こそ。大丈夫だったの?」
長老はゆっくりと頷き、笑顔を作った。しかしその笑顔はたちまち崩れてゆく。
「一体何があったの?どうしてこうなっちゃったの?誰がやったの!?」
自分に対する誤解を解くために、どうしても聞いておきたい事だった。勿論、長老の口から自分の名前が犯人として挙がらない事を切に願って。
矢継ぎ早に質問をしてくるカリンを片手で制し、長老は口を開いた。カリンは口を噤み、息を呑んだ。
「銀色の……子供」
「え、銀?」
長老はまたもゆっくりと頷き、言葉を続ける。
「光沢のある銀色の手足、そして右半分だけの同様の面。左半分の顔……あれは確かに、子供だった。それに……」
「それに?」
「背中からは左右一対の、ハネのようなものが生えとった」
「はね……鳥みたいな?」
「いや、違う。鳥とは似ても似つかぬ――そうだ。あれはハネというより、むしろ触手のようなものだったな。それが鞭のように伸び……全てを破壊した。お前も気をつけろ……見たらすぐに逃げるんだ」
「う、うん」
長老はそのハネを持つ銀色の子供が時計塔を破壊する様を目の当たりにし、呆然としていると急に飛んできたそれと鉢合わせしたのだという。長老を見つめる瞳は光のない銀色。その冷たい視線に射抜かれ、長老は妙な感覚を覚えたそうだ。
「……他の先生は……シンバルド先生は?」
「ああ、シンバルドか。そういえばこの間のことを話したが、カリンと会わなかったそうじゃないか。酷く残念がっていたよ。久しぶりに心置きなく怒鳴りつけてやれるとな。それに……」
長老がそういう前に一瞬見せた顔を、カリンは見逃さなかった。核心を得ない長老に声を上げる。
「そんな事どうでもいいから!先生は何処!?」
長老はもう一度、同じ表情を作って見せた。悲しみと悔しさをないまぜにした表情。今度は一瞬とは言わず、もう一生その顔が変わらないのではないかと思えるくらいに。そしてその表情は、カリンに答えを予測させる。長老はやはり表情を変えずに口を開いた。
「そこにおるよ……」
そういって長老が指したのは、斜めに傾いた一本の柱――と思った所でその柱の異様に気づいた。確か学舎内の柱は簡素なもので、何の変哲もない四角いものであったはず。しかし、このひし形の柱に施された繊細な彫刻は何だろう?少し考えてみて、その何を表したのか理解しがたい彫刻に見覚えがある事に気がついた。この間ここへ寄り、そして帰り際、これにしがみ付いたのだった。
これは時計の針だ。巨大な時計塔に随時時を刻み続けていたはずの長針が、屋根を突き破って床にまで達していた。そうしてその針を屋根から辿ってゆくと、床の所で白い布が何かを包んでいた。まさかと思い、長老の顔をうかがえば、さっきと変わらぬ表情で頷く。長老はその白い布を指していた。おそるおそるその白い布に手を伸ばすが、長老がそれを制した。
「よせ。見ないほうがいい」
双方とも言葉をなくし、今まで退いていた周囲の声が耳に蘇る。
暫く続いた騒がしい沈黙に終止符を打った長老の言葉は、カリンの着ているシャツの肩口を濡らした。
「一人前になったお前の顔を、見せてやりたかったな」
あんなに嫌いだったのに。あれだけ怒鳴られて、罵られて、あれだけ苛められていたのに――なんだろう。次から次へと湧き出てくるこの涙は。沸き起こるこの悲しみは。
確かに事あるごとに大声で名前を呼びつけ、その非をまくし立てられてきた。
――『こら、リン。お前の仕業だな!?』
――『違う!おれじゃないってば!』
どんなに弁明しても、それを受け付けることもせずに同じ言葉を繰り返す、誰でも嫌いになるだろう。そうやって叱ってくれる人間が他にいたか?カリンを相手にしてくれる人間が他にいただろうか?叱る内容はどうだっていい。他の教師のカリンに対する反応といえば、溜め息か、無視か。お陰で好き嫌いの区別すら出来ない人間ばかりであった。
――『その成績の悪さじゃあ、何も出来ないだろうな!』
外の世界を知った今ならわかる。確かに、ここでの修練がなければ外の世界では生きてはいけない。それを不器用ながらも伝えていたのだ。生きてくれと叫んでくれていたのだ。失って初めて気づいた自分が歯痒く、そんなシンバルドに応えることのできなかった自分が悔しい。あのやさしさに、もっと早く気づいていれば。
「いやだ……シンバルド先生……こんな再会なんてないよ。嘘なんでしょ?その布の中で、おれを脅かそうと思ってるんでしょ?ねぇ!応えてよ!ねえ!!また前みたいに、コラ!って大声で怒鳴ってよ!!」
カリンは以前そうされていたようにできる限り大きな声で叫んでみたが、涙と鼻水で呼吸がうまくできない。しかし目の前に横たわる白い塊は何の反応も見せず、胸が張り裂けんばかりに怒鳴ってはすすり、叫んでは泣きじゃくるカリンに対して沈黙を守り続けていた。
もしかしたら長老と示し合わせて機を伺っているのではないかと、長老の制止を振り切ってその布をめくり、見せ付けられた現実に嘔吐したのはもうだいぶ前になる。枯れた涙腺からは水気のない涙が風となって流れ出し、噎せ返って酸欠に頭が痛み出した頃には、すでに辺りは闇に包まれていた。この闇が永遠に続くのではないか。もしかしたら、もう二度と太陽は昇ってこないのではないか。カリンは今、不幸のどん底にいた。
泣きっ面に蜂が刺すとはよく言ったものだ。不幸はどうしてこうも続くのだろう。幸いなことに朝は来たが、その色の無い光がかえってカリンのそばに横たわる闇を暴き出していた。
長老は冷たくなっていた。泣き暮れるカリンの背中をさすってくれた昨日の手のまま、息をするのを止めていたのである。学園都市という時の怪物に食い尽くされたのか、それとも昨日長老が言っていた「銀色の少年」の仕業なのか――それはわからない。断末魔に苦しむ余裕も与えられなかったらしく、長老の顔は穏やかだった。それがカリンにとっての唯一の救いであり、長老の死を受け入れられずにいる最大の理由だった。
もう一度体中の水分を搾り尽くした後、愛すべき者たちをその場に遺し、カリン学舎を後にした。