73 くそったれ
言われるがままに飛び出したはいいものの、空中でやはり、ヘルメスは躊躇っていた。
あの少年はヘルメスに何も語らなかった。確かにあの火傷がバルカの手によるものだと考えるのは不自然なことではない。その一撃を受けてなお、ああして学園都市に生きてたどり着いたという事実こそ、少年がバルカを倒したという何よりの証拠となりうる。
しかしだからといって彼が「封印」と関係があるとは、必ずしも言えない。
――『疑わしきは罰する』
確かにこの世界ではその理論が通る。少年を殺す理由としては十分だ。狩りと称して人を殺めるバルカなど足元にも及ばないほどの正当性が、いまのヘルメスにはあるのだ。
ガイアの言う事を信用しないというわけではない。ゼフィロスの言うとおり、額の印章に反逆しようという考えも毛頭無い。ただ、信じたくない。杞憂であってほしい。そういう思いが、ヘルメスの足を引っ張っていた。
(ガイアの目がある限り、誤魔化しは利かんしなぁ……)
ヘルメスはいかにして少年を殺すかという事ではなく、いかにして少年を殺さずに済むかという正反対の事を熟考していた。言葉を交わした事も無い、ただ様子を見ていただけの少年に対してどうしてそこまで情を注ぐのか。少年の空気がヘルメスをそうさせたと言ってもいい。ヘルメス自身にもその理由は分からなかった。
「おうっ!?」
突然ヘルメスが妙な声を上げた。その相手をしている彼の顔見知りがそこに居るわけでも無い。急に腹を締め付けられるような衝撃に見舞われたのだ。何の前触れも無く――いや、それが何かの兆しだったのか。ヘルメスは地面に着地した。胃の腑を掴まれ、ゆっくりと持ち上げられたような感覚に吐き気を催す。ひび割れを起こした冷たい土に手を着いて落ち着くと、あの衝撃に心当たりを見つけた。
(まさか核壁が……)
ヘルメスの信じたくないという気持ちは別の理由で限界まで膨張し、それを確かめようと、吐き気の「気」の字がまだ残った体に鞭打って地面を蹴った。
事実は意に反して、ヘルメスの予想通りだった。地平線上に見える小さな突起は確かに学園都市だった。それは、遠目に見ても判るほどに形を変え、実際にあれが学園都市なのかと、人一倍良いと自負する自分の目を疑ったくらいだ。学園都市の中で一番目立つあの塔の群れ。しかしそこに人が暮らしているはずが無く、無論煙突など無い。だがそこからは確かに黒い煙がもうもうと吐き出されている。しかもそれは塔からだけではない。学園都市の建物という建物から、それは噴き出していた。
「うそだろ……」
まさに今、150年に及ぶヘルメスの作戦による不敗伝説は幕を閉じたのである。やはり先ほどの衝撃は、何者かの手によって核壁が破壊された事によるものだったのだ。そしてその何者かというのは、もう見当がつかないはずも無い。
――『何故そんな重要な場所にそんな危険物を置くんだ!?学園都市を吹き飛ばすつもりか!』
ゼフィロスの怒鳴り声が蘇り、再びヘルメスに叩きつけられる。
「クソったれ……」
杞憂など無かった。有り得ないという気持ちがどこかにあるからこそ期待があるのだ。
ヘルメスは猛スピードで滑空を始めた。