6 せなか
瞑っていた目を開くと、風にたなびく草の海原は遥か下。
(すごい!)
東の低い位置に今浮かんでいるあの太陽。ちょっと進んで手を伸ばせば容易く届いてしまうのではないか。そんな錯覚さえ覚えた。
ただ一度、ほんの一度、地面を軽く蹴っただけでこんなに高くまで来てしまった。
隣では鳥が、まるでリンたちと高さを競っているかのように羽ばたいている。空は地面から見上げるよりもその色を濃くし、空気は二人を避けるようにして、うめき声を上げながら二つに分かれてゆく。風の抵抗も無く、「恐怖」という二文字はリンの頭の中には浮かばなかった。リンはただ、空の中で風になっていた。さっきまでの沈んだ気持ちは、いつしかこの感動に払い除けられていた。
「おいリン。目ぇ開けてるか?前見てみな」
リンはヘルメスの声を聞いて、自分が彼の肩に掴まっていることを思い出した。そして言われた方角へ目を向ける。
「あっ」
建物が小さく見えた。リンたちが学ぶ学舎、その隣に、皆の居住スペースである宿舎街――間違いない。いつもと見る角度は違えど、あれは確かにリンの知っている景色だ。リンはさらに視点を横へずらし、そこに見慣れないものを見つけた。
塔、だろうか。高さも形も区々な無数の塔が、まるで筆を束ねたように密集して建っている。そしてそれらの周りを取り囲んでいるのは、霧――そう、白い霧がその塔の群れを景色から掠め取るようにして、筆を束ねる帯を成していた。
学舎、宿舎街――それ以外には何も無い。リンはこの学園都市をそう認識していた。恐らく他の子供たちもリンと同じだろう。大体、学園都市で一番高いはずだった学舎の時計塔を越えるその高さと、宿舎街の面積を裕に凌駕するその大きさを持ってすれば普通に考えて、宿舎街のリンの部屋からでもそれを見ることは容易なはずだ。だが実際、リンにとって今このときが、その群塔との記念すべき初対面の時ということになっている。
あれの正体は何か、何のためにあるのか、一体誰が建てたのか――募る疑問を片っ端から解決しようとヘルメスにそれを問おうとしたのだが、最初の質問を口から発する前にその相手から声が掛かった。
「しっかり掴まってろよ」
「え?」
目の前の角度が変わったかと思うと、突然速度が増した。すごい勢いで地面が近づいてくる。何を感じる余裕も無い。リンはただ、ヘルメスのボロボロのマントに必死でしがみついているしかなかった。ぶつかる、と思ったとき、ガクンという衝撃と共に急減速し、ヘルメスはふわりと地面に足を着いた。リンはヘルメスの背中を降りると、その場で膝を折る。
身体が重い。地面に吸い込まれるかのようだ。
(気持ちわる……)
現世を経ることなく天国からいきなり地獄まで落ちた気分だった。リンはものすごい吐き気に襲われた。かろうじてこれに耐え、飲み込んだと思った瞬間、喉につんとした酸味を感じ、さらなる勢いで再びこみ上げる。
「おい、大丈夫かよ?」
リンは盛大に嘔吐した。そして、次には激しい眩暈。
「何の騒ぎだ!あ、リン!お前こんなところで」
こんな朝早く、学舎の庭に降り立ったヘルメスの足は何の音も立てなかった。だから誰かがその「騒ぎ」を聞きつけてここへ集まってくるはずが無いとヘルメス自身も思っていたのだが、実際はどうだろう。まるで待ち伏せていたかのように、彼は現れた。
「おー久しぶりだな、シンバルド」
(シンバルド?ヘルメスが、シンバルド先生のことを……知ってる?)
「あっ!へ、ヘルメス様!」
(ヘルメス……さま?)
「――――」
「――――」
その後の会話を聞き取ることは出来なかった。リンの朦朧としていた意識は、ついにリンの下から離れて行った。