5 おとこ
「……おい。おい、お前!」
呼びかける声に はっと目が覚めると、知らない男がひとり、顔を覗かせているのに気がついた。歳は三十代前半だろうか、深く鮮やかな青色の瞳、短く切った青灰色の髪はある程度の束を作って大きくカールし、頭のそこここに奇妙な渦巻きを作っている。額には長い緑色の帯を巻き、全身には元の色を予測できないほど汚れた、ボロボロのマントを纏っている。
「何してるんだ、こんなところで?」
「こんなところ」という言葉ではじめて、リンは自分が草の上に寝転がっている事を思い出した。空は雲も無く、吸い込まれるように青い。
(眠っちゃったのか……)
「どうした、呆けた顔をして?」
「おじさん……誰?」
男はきょとんとした顔をした後、大声で笑い出した。
「『おじさん』か、こりゃあいい!」
リンは訳も解からず、ただ、男が笑いを止めるのを黙って待った。
「あぁ、悪い悪い」
男はなおもくつくつと笑いながら、リンのほうに向き直る。
「俺の名はヘルメスという。で、お前は?どうしてこんなところで寝転がっているんだ?」
「ヘル、メス……」
そう呟いて、今度はリンが噴き出した。
「変な名前!」
嘲笑と共にそう言われたが、ヘルメスはその青い目の色を変えることも無く、ただこう聞き返した。
「お前の名は何と言う?」
「おれ?おれの名前はリンだよ」
ヘルメスはリンが予測していた、いかなる反応も見せなかった。そして、立ち上がり様に言い放つ。
「学舎へ戻れ。子供は外へ出てはいけない」
「え……」
「いいから帰れ。ほら、早く!」
語気荒く言われて戸惑いながらも、リンはヘルメスの瞳をまっすぐ見る。
「帰れって言われても、どっちがどっちか判らない」
怪訝そうな顔をして、ヘルメスはリンの背後を指差した。
「あっちだ。真っ直ぐ行けば学舎に着く。子供が跳んで、三歩ほどの距離だろ?」
リンはそれを聞き、眉を顰めた。何も言わず、指差された方向へと歩き出す。一歩、二歩……そして三歩目の足を地面に着いたとこ ろでヘルメスの声がかかる。
「おいリン。お前ふざけているのか?早く跳んで行けって言ってんだろ!」
言っても全く歩幅を変えようとしないリンに小さな苛立ちを覚え、ヘルメスは軽く地面を蹴ってふわりと宙を舞う。そしてリンの頭上を越えて前に出、舌先に仕込んだ責言を咄嗟に呑み込んだ。
リンの目から、涙が流れ出しているのに気づいたのだ。
「まさか、お前……」
(おれには、出来ない……)
跳べば三歩の距離だと、ヘルメスは言った。天頂から日が落ちるまでの間、リンが必死になって走り続けた距離を。右も左も判らなくなって、不安に足を止めてしまったあの距離を、たったの三歩だと言った。
(長老、やっぱり、絶望の中には絶望しかないんだよ。やっぱり、おれはだめなんだよ)
悔し涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、なおも歩みを止めないリンの目の前に、ヘルメスは背中を向けてしゃがみ込んだ。
「負ぶさんな。連れてってやる」
「……」
リンは大きくすすり上げ、ヘルメスのボロマントにしっかり掴まる。
それを確認して、ヘルメスは軽く地を蹴った。