69 所長のコテージ
昼食後、アウラと一緒にのろのろと所長のコテージに向かう。
ねえ、ジェイミィ、「ネッツ事件」って覚えてる?
アウラが聞いた。
「うん、覚えてる」
ネッツは3年ぐらい前に話題になった犯罪者の名前だ。いや、違う、ネッツはその犯罪者にIDカードを盗まれた哀れな男の名前だ。
その男は35歳になっても子供を作ることができずに、強制労働が科せられるはずだった。けれど、役人が迎えに来る前に彼は逃げた。
現金というものが使われなくなって長い時間がたっていて、IDカードが無いと合成パンすら手に入れられない中、盗みを繰り返して食料を得て逃げた。
やがて、ネッツという男のIDカードを盗んでそれで不正をしようとしたことがきっかけで全国的なニュースになった。
ネッツは怪我をして働けなくなって貧民窟に落ちた男だった。ネッツは家で寝たきりで、食料などはネッツの家族が家族名義のカードで買っていたから、ネッツはしばらくのあいだ自分のカードが盗まれたことに気が付かなかった。それでネッツまで罪に問われることになったのは別の話だ。
逃げている男のニュースは毎日TVのニュースで流れ、それを見た人の中には、逃げる男をひそかに応援していた人もいたかもしれない。
結局1ヶ月ほどでその男は捕まったんだけれど、アウラが今こんなことを言い出すなんて。
「ここには逃げる場所すらないな」
そうね、うまくいくと考えたのが間違いだったのかもしれないわ。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。
アウラは何も悪いことをしていないのに。
アウラはどんな処分でも受け入れるつもりのようだ。僕はアウラには不幸になって欲しくないのに。
食堂から所長のコテージまで、別に遠い訳では無いのであっという間に着いてしまった。
深呼吸を1つしてドアをノックする。
所長のコテージは外から見た大きさはB計画の参加者のコテージと同じだったけれど、入ってすぐはリビングではなく執務室という感じの造りになっていて、大きなデスクが置かれていて、2人掛けのものが1つと1人賭けのものが1つのソファセットがあった。その分寝室が狭いのだろう。
所長は僕たちをソファに座らせると、あの流産のことは残念でした。と口にした。
アウラの身体が緊張するのがわかる。
「残念でした」とか、どうしてそこから話を始めるのだろう。僕がここで何か返事をしたほうがいいのかどうか迷っていると所長は話を続けた。
今までに3回、今回を含めると4回、5箇所の惑星でB計画が実施されましたが、妊娠反応が出たのは初めてのことです。
あの時は本当に嬉しかった。
所長の言葉に僕たちを非難するような色はない。けれど、こうやって持ち上げておいてから落とすんだ。
今までB計画は多くの人にチャンスがあるようにという意味もあって、できるだけ沢山の人に参加して欲しいという方向で実施してきました。
しかし今まで成果が出ていません。
あれ?なんか話の方向が違う?
ところが今回の件があって、可能性の高い2人、アウラとジェイミィにもう1年B計画に参加してもらいたいと私たちは考えています。
「えっ?」
僕とアウラは顔を見合わせた。
よかった、あのことがバレたんじゃなかった。僕の中にじわっと安堵が広がっていく。




