第一幕 花咲く頃 Ⅳ傀儡劇場
Ⅳ傀儡劇場
小さな人踊り子たちはスポットライトの眩い光に煽られて、長く伸びたその影は大黒幕に濃く強く塗られている。チェーンモーターの楔がカラカラとその乾いた音を響かせ、スポットライトは演者を追い踊り舞う。引っ切り無しに幕は引かれ、変遷する数多の世界の基盤を強くそして時には優しく支える。ここは舞台。演者は役に命を吹き込み、舞台装置は演者を彩る。そう、舞台は生きている。多くのモノに命を与えられ、その舞台そのものに命が宿る。宿った命は淀みのない美しい華を咲かせ、その色・香りは観客に新たな命の種を植える。
『あの場所にはすべてがある!僕の探した仲間・理想・世界。だから行こう。あの場所へ!君と!』
舞台で踊る凛々しい白いウサギが、そのボタンで作られた赤い目を煌めかせながら台詞を言う。その少し大袈裟な舞台特融の口調は、観客席に響きわたり真っすぐに通り抜けていく。スポットライトに照らされたウサギは人形だというのに、まるでその綿の中に魂が染みこんでいるように流暢に喋る。そのウサギの人形は舞台の暗闇へと手を差し出す。突然新たな明かりが灯った。
『私もそう思うよ!今まで失うだけの人生だった…。でもこれからは違う。一緒に私たちの世界を探しに行こう!』
新たなスポットライトが追った先は、片耳の垂れた灰色のネコの人形だった。緊張しているのだろうか。少し声が震えていた。ネコは差し出された手に自らの手を乗せる
『今の僕と君ならできる。いや今の僕と君にしかできない! 僕も君と同じ、退屈な人生を送ってきた。君と出会えて本当に良かった。僕のすべてを変えてくれたのは君さ。君が僕の人生の始まりだったんだ!』
ウサギはさっきよりも強く、そして抑揚の籠った口調である。
『私も同じだよ。すべてはあなたから始まった! あなたが私のすべて!』
二人はその場でしばらく熱く見つめ合うと、ウサギがネコを曳く形で静かに波打つ夜の海辺へと向かっていった。海はその濃い藍色の笑みを掲げ夜空の月と星々を映し出し、その輪郭を揺らし遊ぶ。二人が海へと足を踏み入れると星々は二人の行く末を照らし一本の道となった。光の道は天へと昇り、二人は星々の最果てを目指す。
ここは夢。月明りに誘われて香りを散らし花は咲く。寄せては返す波音に乗せ、ゆらゆら消える水泡は儚き現に飽き飽きた空しきヒトの様。ここは現。乾いた地面を風が蹴り、舞う砂埃は空虚に引かれた砂漠を往く。煌めく星々に魅せられた枯草は夢に溺れた愚かなヒトの様。星々の絨毯は人々の夢を奏でる。天に昇った罪人は、届かぬ夢の重さに惹かれ深い闇へと落ち行く。これは運命、悲しみ背負う者の末路。
その劇場の外装は崩れ剥げ落ち、シンボルであった時計塔に関しては木々や植物が生い茂り、もはやその栄光を示すことなく悲しい姿をしていた。前見たときは人で溢れ、興奮と熱狂を時計塔が堂々たる姿で示していたのを私は覚えている。どうやらフウリンによればここが次の記憶の欠片がある場所らしい。入口のアーチを潜ると荒廃して劇など何一つやっていない筈なのに辺りには多くのポスターが貼り巡らされている。「さてアレには何が書いているのかな」私はポスターに目をやる。『小さき者の冒険』と書かれており、背景には天へと続く星々の道が書かれている。
「ねえこれって劇だよね? 記憶の欠片に関係あるのは確かだと思うけど、なんの劇なんだろう。私この作品知らないよ。」
私は琥珀の先の彼であるフウリンに目の前の質問を投げかける。彼がこの劇について何か情報を持っているとは思えなかったが、私は心の平穏の為に質問をせざるを得なかった。
『そんなこと私も知らない。私がわかるのはこの世界のどこに欠片があるかだけだ。どうせ関係してるなら見に行くしか選択肢は無かろう。』
「そうだよねぇ…」
私は深くため息をついた。自分以外誰もいないことは確かに恐ろしい。しかし常識では考えられない不可思議なことが起きることの方がもっと恐ろしいからだ。いつの間にか汗をかいている手をギュッと握りしめる。ねじ曲がり、錆び、ネオンの明かりが不規則に点滅している『THEATER』と書かれた文字を潜り、先の大きな扉を強く両手でおした。油の差されてない蝶番が悲鳴を上げながらその大きな口は開いた。劇場内は仄かに明かりが灯っており観客が来ることを待ち望んでいるようだ。やはり辺りの座席には人の気配が一つもない。
「自分の世界での劇だから観客は一人だよなぁ。唯一、一緒に居てくれたかもしれない怜はもうここにはいないし…。」
髪に挿したスターチスの花に手を添え軽くつぶやきながら、適当に目についた真ん中の席へと腰掛ける。するとすべての扉がバタンッという乱雑で大きな音を立て自然に締まると、通路の明かりはすべて消えてしまった。
「一体なに⁉ 何が起こってるの⁉ 明かりはないの⁉」
あまりに突然の出来事に直面し私は狼狽した。何かしらは起こると踏んでいた私だが、舞台が始まる前にこんな事になるとは思っていかった。するときりっとした声の持ち主で、タキシードに身を包んだ一匹のウサギがスポットライトに照らされこちらに話を掛けてきた。
「七華様、初めまして。私はこの舞台の主でございます。この度はご来場ありがとうございます。ここでこの舞台における注意点を七華さんにお話します。まず一つ目が、えぇっと…」
「あなたの目的は何? この劇場に閉じ込めて何をしたいの。」
ウサギの言葉を遮り私は声を上げた。ウサギは訝しむ様子でこちらの顔を覗き込むと、不思議気な顔をして顎に手を当て首を傾げた。「ふむふむ。」そんな独り言を呟き少し考えこむと、突然何かの合図のように両手を鳴らした。
「どうやら貴女様には言葉で説明するよりも実際に見せた方が早いようですね。先ほど目的は何?と仰っていましたが、はっきりととここで申し上げましょう。我々人形の民の目的は貴女様に記憶の欠片をお返しすることでございます。そして閉じ込めて何がしたいか?とも質問していらっしゃいましたが、貴方様には申し訳ありませんが我々の劇を見て頂きます。劇を見て思い出してください。貴方様が一体何なのかを。それが我々の切なる願いです。」
そう言い終えるとウサギの姿はいつの間にか消え、舞台の大幕がゆっくりと上がっていく。かくして、舞台『小さな冒険』は開幕された。
始まりは何時からだっただろうか。ごく普通の家庭に生まれ、ごく普通の生活、ごく普通の学力、全てを『普通』にこなすように昔から育てられてきた。朝起きれば学校に行きそこそこの関係性を築いた友人と行動を共にし、夕方になれば学校に帰り家では何か特筆するようなことは何一つしない。平凡で代り映えのしない毎日。だが変化を嫌う七華にしてみれば、変わらないことは平穏の証であると考えていた。そしてそれが永遠に続くことこそが自身の幸せであるとさせ考えていた。七華にはなりたい夢などなかった。幼いころの記録を見れば宇宙飛行士だとか花屋だとか料理人だとかを列挙していると思うが、社会集団の中で揉みしだかれることによりその煌めきたちは角を失ってしまっていた。自分が何のために生きているのか考えることを無駄だと切り捨て、時流の渦に身を委ねる。それこ、が上林七華と言う一人の人間だった。
しかし中学二年の頃、彼女を変える大きな出来事が起きた。ある日いつもように同じ学校からの帰路で劇場の前を通り過ぎたとき、一枚のチケットを通りかかった大人の女性からもらった。その女性が言うにはこれから始まる劇場のチケットが余ってしまっていて、相席でよければ一緒に見ないか、と言うことだった。七華は他人との関係の摩擦を生じさせることは何とでも避けたかった。それが彼女自身の処世術でもあり生き上手である所以でもあった。
「わかりました。ですが私にも用がありますので劇を見たらすぐに帰らせて頂きます。」
本当は用なんてなかったが劇の終了後に早く帰れるように適当に理由をつけていた。それを聞くとその女性は少し懐かしむような眼をして微笑み、七華にチケットを渡すと
「また後で劇場でね。」
とだけ言い去残し去っていった。その後ろ姿を見届けた後、七華は公演の詳細を確認するために手元に残ったチケットに目を落とした。
「小さな…冒険…?」
それは見たことも聞いたこともない演目だった。
劇場の席へ座って開演を待ってると隣に先ほどチケットをくれた女性がやってきた。女性は座るなりこちらの様子を見て話しかけてくる。
「ちゃんと来てくれたんだ、七華ちゃん。もしかしたら来てくれないのかと思ったよ。それでさ、七華ちゃんは自分の生きる意味って何だと思う?」
唐突な質問に少し面を食らったが、始まった会話を終わらせない為に仕方なく答えることにした。
「そんなこと知りませんよ。生きる意味なんて考えても自分にできることには限りがあるから、そんなことを考えること自体が無駄ではないですか。『なるようになる』それだけです。」
「その年で随分と乾いた考え方をしてるね。話に聞いていた通りだよ。」
私は年齢を馬鹿にされたように感じ、その女性を鋭く睨みつける。女性はそれを見るや否や苦笑いをすると、ステージの大幕に視線を移し熱の籠った声で語り始めた。
「僕はさ、一度大切なものを失ったんだ。悲しみに溢れてもうどうしたらいいかわからなったんだ。でもそのうちわかったんだよ、命には使いどころがあるってね。人にはそれぞれ定まった運命があるんだ。その運命はそう易々変えられるものではないけれど、その運命をただ受け止めるのか最後まで抗うかには大きな違いがあるんだ。僕はあきらめないよ。例えほかの全てを失うとしても。」
七華はその言葉を静かに耳を傾けていた。いつもならくだらないと心で嘲笑っているのだが、彼女の言葉を馬鹿にすることは七華には出来なかった。
「あっ、そろそろ劇が始まるよ。さっきの言葉は忘れてくれていいよ。大の大人が子供に語ってしまって申し訳なかったね。」
そういうと彼女は懐から一つの雨を取り出すと、私の手の平にぎゅっと握らせた。舞台の幕はゆっくりと上がっていく。『小さな冒険』開演である。
ウサギとネコは星の道をどんどん歩いて登っていく。真下を覗けば黒く揺れる大海原があったが、二人で手を繋ぎこの道を行くのであれば何も怖くなかった。途中風に煽られ道から落ちそうになることもある、でも二人なら支えあい乗り越えることが出来る。彼らには出来ないことなど無かった。とうとう雲の上の世界を視界に捉えた。そこにはいくつもの浮かぶ島がありそれぞれがそれぞれ独特の国を形成しているらしかった。ある島は中世ローマのような街並みを形成し、ある島は超高層ビルが立ち並び摩天楼を形成していた。他にも空間の歪みをモチーフとしたのか建物がねじ曲がって建築されている国や、島の中心に大きな石像を置きその周りに街を創った国や、様々に溢れ出る色を使い奇抜なカラーリングで塗られた国などもあった。確かにどの国もその性質は違い、不思議だと思う国もあった。しかしどの国もその国に住む者たちが伸び伸びと暮らしている様子が目にとれる。そうした国々に目を奪われていると一匹の天使が舞い降り話掛けてきた。
「やあ君たち、どうだいここの雲の街は。それぜれが国を形成しそれを束ねることにより一つの街を形成しているんだ。もしも気に入った国があれば教えてくれ。その国へ向けて星々の道を引くよ。あ、もし自分たちで国を作りたいなら空白の島も用意できるよ。」
そう言いながら天使は頭上を旋回した。何回か旋回をしながらこちらを見ている様子で、突然何かに気が付いたように声を上げた。
「き、君たち星の証を持っていないのにどうやって星々の道を登ってきたの? まさか…星の聖者によって選ばれた者なの?」
天使は慌てふためき、どこからかほかの天使を集めてきたが私たちを見るなり「これがあの…」「そんな…」「本物なの…?」と言う声を上げ仲間内で相談を勝手に始めていた。何が起きているのか全く分からずウサギとネコの互いの顔を見つめては同時に首を傾げた。状況を把握するために天使に「星の聖者」について聞いてみることにした。
「ねえ星の聖者とは何なのさ。僕には星の証についても全くわからない、何か知っていいるなら教えてほいいんだ。」
「私も同じくわからないの。その様子じゃ私たちについて何か知ってるんでしょ。」
そう質問すると天使たちは全員言葉に詰まったようで黙ってしまった。するとその天使の集団をかき分け風船によって吊るされた一つのマネキンがゆらゆらと揺れながら前へと出てきた。マネキンには上半身しか体が存在せず、下半身には二つの車輪が取り付けられている。その禍々しい恰好から普通のマネキンではないことがわかる。
「あなた方が噂の聖者によって選ばれた二人ですね。私はとある国の長のライアンと言う者です。ここでは何ですから私の国でお話をしましょう。さあ天使たちこのお二方の為に星々の道を作りなさい。」
「ライアンさんあなたの国ってどの島にあるんですか?」
興味本位でウサギは尋ねた。その質問を受けライアンは少し笑うと一つの島を指さした。「あれが私の街だよ。あの街にいけば解ると思うけどちょっと変わった街でね。お恥ずかしいこといに外から誰も来ないのさ。だが、だからこそ話し合いに丁度いいのさ。すまないが先に私は島に行かせてもらうよ。君たちを迎える準備をしなければいけないからね。」
そういうとライアンは踵を返して風に乗り島へと戻っていった。
「さて僕たちも行こうか。」
二人はまた星々の道を歩き始める。悲しみで回る地上の世界を捨てここにようやく辿り着いた。やっと出会えた二人の運命、二人だけの世界。ここで終わらせない為に…。
「ようこそいらっしゃいました、お二方。さあ奥へと案内します。こちらへいらしてください。」マネキンたちが列をなし私たちを案内する。街並みは西洋のようで道路には煉瓦が引かれている。その国の住人はどれもマネキンの姿をしている。なんとなくライアンの言っていた言葉がわかる気がする。確かにマネキンが歩く街並みは不気味で近寄り難いだろう。そう思いながら手を握った先のネコを見つめる。ネコは不安がった様子で周りには聞こえない声で耳打ちをしてきた。
「ねえ、あのライアンって人信じてもいいのかな。私にはあの人が優しい人だとは思えないの。」
「大丈夫だよ、何かあれば僕が守るから。」
そういうとウサギは強く手を握り返しネコへと微笑みかけた。どんどん奥へ進んでいくと一つの蔦で覆われた小さな協会が現れた。噴水の水は止まり、花壇には華は無い様子で中庭は酷く荒れ果てている。協会特有のステンドグラスも所々に破られた跡があり、お世辞でも美しい境界とは言えない。そっと扉に手を掛けると腐りかけていたのか取っ手は自然と外れ落ち、その拍子で扉が軋んだ音を立てながら開いた。「これは一体…」ウサギは目の前の光景に目をやる。聖壇の前でライアンが一人鎮座している。その左手には紫色の怪しく煌めくキューブが浮かんでいた。
「お二方どうぞ前に来てください。あなた方の質問にすべてお答えしましょう。しかしここで私と話したという事実は絶対に他人には話さないでください。」
「ライアンさん、その手の上の物は何だい?僕にはなんだかわからないんだが。教ええてはくれないか。」
早速ウサギはその不思議なキューブについて質問をする。
「これはこの教会の聖櫃に眠っていた聖遺物です。今ではこの聖遺物をもっているものだけがこの教会を管理する権利を持つことになっているのです。まあどのみちこんなオンボロの教会をどうこうしようなんて考える者はいないですけどね。」
「それでさっき言っていた『星の聖者』とは一体何なんだ。それって何か問題があるのあかい?」
「それにお答えする前にこの雲の上の街について少し話さないといけませんね。この国々にはそれぞれ長がいることについてはご存知のことでしょう。それぞれがその国を自治することによりこの街は平和を保っています。ですがもう一つこの街の平和を守っている存在があります。それはこの街よりさらに上に存在する『神の国』です。『神の国』は一つ一つの国の力を平等になるように常に監視し、何処かの国が力を付ければ国土を削るなどをして対応しています。これがこの街の仕組みです。」
「それで『星の聖者』とは何なの?あまりにスケールの大きな話で内容が読めないのだけれど…」
ネコは流暢に話すマネキンをじっと見つめた。
「そうです。これだけなら本来は『星の聖者』などと言う者達が出る幕など無いのです。ですが一年前その状況が変わりました。『神の国』の神が死んでしまったのです。神が消えるとそこからは転げるようにこの街の様子が一篇しました。力ある国が力なき国を勝手に支配し始め、天使たちはどうすることもできず見て見ぬふり。そんな状況の中、自分たちは神の意志を継ぐものだと言う『星の聖者』という集団が現れたのです。彼らは横暴な国を襲撃しこの街に介入し始めまたのです。」
「僕にはよくわからないのだが、街の自治を代行してくれているのならなにも問題ないのではないの?強力な支配者がいなくなってしまったわけなのです。」
「その通りですウサギさん。ですが現実はそうではないのです。彼らは表向きにはこの街を守ると言っていますが、実際は国を侵略しこの雲の街全体を乗っ取ろうとしているのです。」
「話はわかったよ。どうやらここは今大変な状況らしいね。でもここまでの話なら僕たち二人は何も関係しないはずだ。『選ばれた』とは一体どういう意味なんだ。」
ライアンが少しの間黙ると、ゆっくりと声を上げた。」
「あなた方は『選ばれた』それがどういうことかでしたね。『星の聖者』は最終的には自分たちの国を作る計画を練っています。それこそが他の国を侵略していた証です。ですが彼らには王になる者がいません。彼らは一応表向きには神の家来と銘打って活動しているので、王になることはできないのです。そこであなた方が『選ばれた』のです。神の天啓によってここに導かれたのなら、その者は神に認められた者と言うことになる。つまりはあなた方は傀儡の王の座に立つことを望まれているのです。」
「つまり僕たち二人は権力争いの道具だと?」
「その通りです。だから私はあなた方が彼らに見つかる前にここに連れてきたのです。」
ライアンは優しく説明していたがネコにはその真意がわからなかった。なぜ彼がここに私たちを連れていく必要があったのか。説明をして一体なんの得があるのか。考えてもその答えはでない。もし自分なら、二人を地上へ返すだろう。その方が全てが穏便に終わる。だが彼はそれをしなかった。ネコはその鋭い瞳でライアンを睨む。
「ねえ、ライアンさん。単刀直入に聞くわ、あなたの本当の目的は何?」
「キレる人だ。話がよくわかっている。」
すると紫のキューブはその手のひらで眩い光を放ち回転を始めた。気が付いた時にはもう遅い。ウサギの胸には十センチほどの大きな風穴が空いていた。ウサギはその場に倒れこみヒューヒューと喉を荒く鳴らしている。
「騙したのね私たちを!」
「騙してなんかいませんよ。初めから私はあなた方の味方なんて一言も言っていませんよ。私だって今とてつもなく心苦しい。こんな罪のない人を撃つ羽目になるなんて…」
言い終えるとまたキューブは回転し光出した。呼吸ができない。そのまま床に崩れ落ちる。辺りは赤い綿が散らばっている。
「このキューブに撃たれた穴はどんどん広がっていく仕組みになっています。もうあなた方は助かりません。許して欲しいなんて言いわない、どうかこの私を許さないで欲しい。」
ライアンは聖壇の方を向き祈りを始めた。キューブは自然と宙を舞い、その光で室内を照らす。私たちは間違っていたのかな。自分たちの運命から逃げ、二人で生きようとした罰なのかもしれない。朦朧とした意識の中ウサギの方へと懸命に手を伸ばす。しかしその掌は虚空を切りぐったりと地に落ちた。「ごめんね。」遠のいていく意識の中、心に思い描いたのはその一言だけだった。
七華はその劇を見終えると、その目から無意識に涙が零れていることに気が付いた。この劇を知っている。昔通りかかった女性に誘われて見たんだった。ウサギとネコの悲しい結末の物語、でもこの物語は私を虜にする。
「如何でしたか、七華様。あなた様の記憶を元に作ったこの劇こそが、記憶の欠片そのものです。こうしてあなた様にお返しすることが出来我々は非常に光栄です。」ステージに立つタキシードのウサギは帽子を外し大きく礼をした。徐々に大幕は下がり舞台は見えなくなった。とうとうスポットライトは消え客席に明かりが灯り、劇場の大きな扉が開いた。外から差し込む明るい光が眩しい。「そういえば…」なんとなく初めてこの舞台を見た時の記憶を思い出してみる。
「ねえ、七華ちゃん。ねえってば、聞こえてる…?」となりにいた筈の女性の声がどこか遠くから響いてくるように感じる。子供姿の七華の視線はまだ舞台の先にあった。初めて見た世界、初めて味わった感情、何もかもが初めての経験。言葉にならない感情が胸をこみ上げ、その身を内から焦がしていく。全てが無機質でモノトーンだった筈の景色が、今ではカラフルに彩色されて強く目に焼き付く。何度か手を握っては広げる。指の先まで躍動感あふれる血が巡り心が熱くなる。これが舞台…。『真面目だ』とか『普通だ』とかと言う言葉とは一線を引き、演者と舞台装置が織りなす新しい世界。そこに生きる者達は情熱、煌めき、技術の全てを捧げ、舞台と言う世界を創り上げる。「美しい…。」初めてそう感じた瞬間だった。
「お姉さんありがとう、初めてこんな感情を持てたよ。この舞台に来てよかった。私はこの世界で生きていこうと思う。」
「そういって貰えて僕は嬉しいよ、七華ちゃん。これから色んな事があなたの周りで起きると思うけど、何があっても僕は君の味方だからね。どうかそのことを忘れないでね。」
そういうとその女性は唐突に席を立ち、鼻歌を歌いながら出口へと向かっていった。その歌は初めて聞いたはずのメロディーの筈なのにどこか懐かしい感じがする。
「待って!まだ話は終わってない。もっとあなたのことを教えて!」
子供なりの精一杯の声で呼び止める。
「七華ちゃん、僕ももっとあなたの傍に居たいけどもう時間なんだ。でも悲しまないで。また私たちは巡り合う運命だから。その時まで私のことを待ってて。」
「なら、お姉さんの名前を教えて! その時まできっと私覚えてるから! ずっと待ってる!」
その女性は悲しさと嬉しさの混じった表情で七華を見つめた。
「私の名前は鎌木怜。あなたの運命よ。」
そう言い残すと人の流れに呑まれ怜は消えていった。
「えっ?どういうこと」思い返した記憶が変だ。鎌木怜は高校時代の私の友人で今は植物状態になってしまった筈だ。なのにあの場に現れることが出来る筈はない、それに背格好だって二十代後半の姿だった。疑問が疑問を呼び、どんどん鎌木怜と言う親友についてわからなくなる。
『どうした、記憶の欠片は見つけたのだろう。なぜそんなに悩んでいる』
フウリンの声が聞こえる。どうやら劇場を出たことにより会話が通じるようになったらしい。
「ねえ、鎌木怜について何かわかる? 彼女が本当は何者なの?」
『ん? どういうことだ。その質問の意図がわからない』
どうやら案内人でもわからないらしい。私は彼に私の記憶について渋々説明をした。
『つまり鎌木怜は同い年の親友の筈なのに、自身の年齢より年上の姿で過去に現れていたということか。なんとも不思議な話だ。お前が望むならこちらでも調べよう。』
「ありがと、なら彼女について調べてね。」
『了解した。だが調べるのにも時間がかかる。その間残りの記憶の欠片を探してくると良い。次の記憶の欠片は…、ん? 次のは二つ同じ場所にあるな。場所はあの遊園地だ。』
琥珀の輝きが差す先は、元の世界にはあるはずのない遊園地だった。
次回では怜の秘密について書きます