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第三章 純白に還る世界25

「……姉ちゃん、自分の命を投げ出すのって、怖くないの?」

「……いきなり何言ってるのよ。そんなの、怖いに決まってるじゃない。感情を持っている以上、死を恐れるのは当然なんだから」

「怖いのに、捨てられるの?」

「無意味に捨てたりなんかはできないわ。でも、優くんのためだから。会ってもいない人々のためではなくて、大切な人を助けられる可能性があるから、あたしは命を捧げる勇気を得られたの」

「……なんだ。まったく、ひどい話だ」

「えっ?」


 疑問を浮かべる彼女の姿を見据えて、僕は手にしているナイフを握り直す。

 『自分の身を第一に守ってほしい』。そんな考え方を説いてくれた本人が、自らそれを破ってしまっている。僕の指摘に心当たりがない様子を見ると、当時から本心では別のことを考えていたのだろう。

 本当に、ひどい話だ。

 疑問の眼差しを向ける姉に構わず、僕は一方的に伝えることにした。

 正真正銘の、別れの言葉を。


「姉ちゃん、この一ヶ月の間、本当の家族のように、本当の姉のように振舞ってくれてありがとう。姉ちゃんは、僕の理想の姉だったよ」


 ナイフの刃先を上げて、胸の前に構える。

 刃の延長線上には、姉の華奢な身体があった。


 ――本当に大切な物は、失う時になってから気づく。


 大切な人達を失って、僕はそれを学んだ。

 そのおかげで、本当に守るべき物を知ることができたんだ。

 凶器を握る手に震えはない。恐怖も躊躇いも、感じてはいなかった。

 姉の教えてくれたように、僕にも誰かに誇れる勇気があったんだと、切羽詰った状況にも関わらず嬉しくなった。


「哀しみを堪えて、命まで代償にしてまで僕を守ろうとしてくれて、前から憧れてたんだけど、その気持ちがもっと強くなったよ。僕も、姉ちゃんみたいな人になりたいって思った」


 自分よりも僕を優先してくれる、かけがえのない存在。

 全世界の人間が助かるからといって、たった一つの自分の命を生贄に捧げることはできない。

 だけど、大切な人を守れるなら喜んで差し出してみせる。

 その気持ちは、僕だって同じだ。


 ――守るべき物。それを失うことは、とても悲しいことだ。


 悲しむのは、大切に想っていたからなんだと思う。

 自惚れかもしれないけれど、もしも逆の立場なら、姉だって悲しんでくれるはず。


 ――ああ。僕は、守れるんだ。この手で、自分よりも大切な存在を。


 彼女は怒るかもしれない。

 僕のことを嫌いになってしまうかもしれない。

 それでもいい。どんな汚名を着せられようとも、まだ僕よりも〝生きてきた〟年数が圧倒的に短い彼女には、もっと生きてほしいと思った。

 こんなに素晴らしいことと、出会える可能性があるのだから。


 ――たとえ命と引き換えになっても、それでもいいんだ。


「え……っ? ちょ、ちょっと優くん? 何してるの!?」


 ナイフを逆手に持ち替えて、姉に向けていた刃先を自分自身の胸へ突きつける。

 僕の発言に当惑していた姉が我に返り、慌てた様子で駆け出した。


 ――だから、姉ちゃん――。


 とてもじゃないが、僕の行動を止められる距離ではない。

 飛ぶような速さで近寄ってくる彼女に微笑みかけながら、僕は刃先を少しだけ身体から離す。


 ――ありがとう。僕は、僕を好きになれそうだ。


「待ってッ!! やめてぇぇぇぇぇぇ!!!」


 中途半端な位置で止まらないよう勢いを溜めて、一息で胸の真ん中辺りに突き刺した。

 瞬間、抗いようのない異物感に襲われ、口から夥しい量の血液を吐き出す。

 けれども痛みはなく、ただ全身から強制的に力が抜けていき、後方に引っ張られるようにして視点が上に移動していった。感覚はないけれど、たぶん身体が仰向けに倒れているのだろう。


「優くんッ! 優くんッ!! 嫌ぁッ!! 嫌ぁぁぁぁぁぁ!!!!」


 悲痛な叫び声が、だんだんと小さくなっていく。近づいているはずなのに、声は遠くなっていく。

 倒れ込んだ正面は、樹木の枝葉が覆っていた。

 閉じたままの蕾を見つめて、最後の望みを花に託す。


「なんでッ! どうしてそんなことッ!! 好きなのッ!! あたし、優くんが大好きなのよッ!!! だから――」


 完全に音が途絶えて、目に映る景色は明るい白色から光のない暗闇へと変化する。

 変わり果てた世界の中心で、闇の果てに向かって言葉を返した。


 ――知ってるよ。


 僕の声は、音にもならずに遠い場所へ消えていった。

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