⑬Moralへの怒り
まだまだ続くラストバトル。
ただでさえ長いのに、次回はまるまる深海の説明に費やしてしまいます。
もうすぐ深海を題材にした「箸休め」も始まりますので、宜しければご覧下さい。
……天才も独りでは生きられない! 多くの人に支えられている!
徹底的に論破された心の声は、もう涙目だ。
あわよくば、泣き落としに持ち込もうとしている。
そろそろ手心を加えてやろうかと思っていたが、その態度が気に入らない。
半平は自分自身を白眼視し、冷酷に吐き捨てる。
じゃあ、凡人は天才の踏み台だな。
一握りの「特別」を支えるために生きていると言うなら、凡人は女王にエサを運ぶ働きアリだ。
幾らでも代わりがいる以上、特定の一匹が生き続ける理由はない。
第一、ごく少数の女王を支えるために、七〇億も労働力は要らないはずだ。
そもそも、天才に寄与しない人々はどうなる? 存在価値がない。天才を「公共に利益をもたらす存在」と定義するなら、社会に貢献しない人間は消えるべきだと言う結論になってしまう。
仮に、全ての分野に精通する逸材がいたとする。
彼は家事から自給自足、医療や工事も自分でこなせる。
社会保障や公共施設にも、一切頼らない。
この完璧超人が〈国際殺人機構〉の思想を唱えた時、凡人に言い返す余地はあるだろうか?
いいや、何を言ったとしても、こう思われるのが関の山だ。
独力では生きられない負け犬が、天才に寄生しようとしている、と。
駄目だ。
どんなに頭を捻っても、半平には〈国際殺人機構〉を論破出来ない。
考えれば考えるだけ、比較的公平に思えていた今の社会が気持ち悪くなってくる。
よくもまあ、こうも世間体よく、強者から搾取する方法を思い付いたものだ。
合理的に考える限り、〈国際殺人機構〉は圧倒的に正しい。
だからと言って、彼等を肯定する気はない。
彼等を肯定することは、地球規模の虐殺を認めることだ。
合コンしか頭にない姉や、リストラ予備軍の父親がお目こぼしを受けるとは思えない。この目には金塊に見える笑顔たちも、メッキのように踏みにじられるだろう。
ただ、一つだけ認められることもある。
キモは潔い。
彼女は切り捨てられるのが自分でも、弱者は無価値と言うポリシーを崩さない。それどころか率先して捨て石になり、せめて価値ある人々の踏み台になろうとする。持論が自分に適用された途端、命乞いをする小悪党とは大違いだ。
敵ながら天晴れと、半平は何度も何度もキモを褒め讃える。
しかし、一向に消えない。
怒りとも、嫌悪感とも知れない胸焼けが。
本来なら無節操な命乞いが、火種になるはずの感情。
それが今、素直に自分の死を受け入れた彼女にかき立てられている。
これはきっと、嫉妬だ。
キモはこの先もヒトとして、限られた人生を歩める。
拳もただの拳で、他人を肉塊にすることはない。
なのに、彼女はその恵まれた命を投げ捨てようとしている。
「ぐ……うぅ……」
彼女が苦痛の声を堪えるほど、胸を焼く熱は強くなっていく。いくら感情を否定しているからと言って、律儀に呻き声まで抑える必要はないはずだ。
「死なせねぇ……! 絶対に死なさねぇぞ……! 意地でも死なせてやるか……!」
〈マスタード〉は鼻息荒く決意し、思いっ切り地面を蹴り飛ばした。
一息に電柱を見下ろす高さまで跳び上がり、空に向けた足から圧縮空気を放つ。そうして自らを黄色い残像に変え、一軒家ほどにも膨れ上がった肉団子に突っ込む。
「いけない! 巻き込まれます!」
ハイネは怒号を上げ、〈マスタード〉を制止する。
だが、〈マスタード〉は止まらない。
例え羽交い締めにされようが、止まる気はない。
「待ってろよ! 今、出してやる!」
怒鳴るように呼び掛け、〈マスタード〉は四つん這いになる。
爪や手の平の肉を使い、生き埋めになったキモを掘り返していく。
残土のように積み重なった赤身を、足や膝でどける。
何とか拳大の穴をこじ開けると、底のほうから幽かな光が伸びた。
〈アンテラ〉の発光体だ。
〈マスタード〉は穴に右腕をねじ込み、光に手を伸ばしていく。
瞬間、急激に穴が窄まり、〈マスタード〉の右腕を呑み込んだ。
「クソっ!? 何だよ、これ!?」
思わず悲鳴を上げ、〈マスタード〉は肘まで埋もれた右腕を掴む。すると今度はロープ状の血管が跳ね上がり、〈マスタード〉の左腕に絡み付いた。
「放せ! 放せよ!」
両手を封じられた〈マスタード〉は、必死に肩を揺すり、揺すり、揺する。だが仮面の中に汗が飛び交うようになっても、きつく巻き付いた血管は離れない。
あまつさえ、藻掻けば藻掻くだけ、足場の赤身に身体が沈んでいく。どうやら知らず知らずの内に、底なし沼へ足を踏み入れてしまったらしい。
ぐらあ!
また新たな〈YU〉が地面を蹴り、肉団子の側面に飛び付く。すかさず怪物は赤身を這い上がり、身動きの取れない〈マスタード〉に覆い被さった。
ぐら……ぁ……!
〈YU〉は〈マスタード〉の背中から身を乗り出し、精一杯顎を突き出していく。ついには〈マスタード〉の頭越しに肉団子へ食い付き、黄緑の血管を繋ぎだした。
たちまち〈YU〉の身体が潰れだし、肉団子との融合を開始する。同時に巨体と肉団子が〈マスタード〉を挟み込み、じわじわとプレスしていく。
ぎち……ぎち……。
装甲が不穏に軋みだし、籠手から胸当てから散発的に火花が上がる。
前後して〈YU〉の血管が背面装甲に伝わり、〈マスタード〉の身体を侵食し始めた。〈YU〉は肉団子のみならず、〈マスタード〉とも融合する気らしい。
「はぁ……はぁ……」
モニターに何も表示されていない以上、〈クワバラング〉は正常に機能している。
胸当てに内蔵されたそれは、息の出来ない場所で呼吸を行うための装置だ。
まず〈クワバラング〉は装着者の呼気を吸収し、二酸化炭素を除去する。その上で呼気に酸素を加え、再び吸えるようにするのだと言う。
人間の世界にも同様の機器があり、「リブリーザー」と呼ばれている。
主な用途はやはりダイビングで、軍事的な作戦に使われることもあるそうだ。
類似した機器に酸素ボンベがあるが、両者には幾つか違いがある。
例えばリブリーザーには、後者より整備に手間が掛かると言う欠点がある。
反面、長く潜っていられるのは、リブリーザーのほうだ。
また機器の中で息を循環させる関係上、リブリーザーは外部に空気を漏らすことがない。つまりブクブクと気泡を発生させることがなく、音に敏感な魚にも近付きやすいと言う。
〈クワバラング〉の解説書には、誇らしげにこう書かれていた。
半日空気のない場所にいても、酸欠に陥ることはない。
ではなぜ、仮面の内側に、急ピッチの呼吸が響くのか。
どうして高い山に登ったように目が霞み、意識が遠のいていくのか。
両手が封じられていたのは、幸いだった。
仮に自由だったなら、息苦しさに負け、仮面を脱ぎ捨てていただろう。
やがて仮面の中に警報が鳴り響き、赤色灯が視界を染める。ただでさえ上も下も右も左も赤身だった景色は、影さえ紅蓮に塗られてしまった。
それでもまだ、危機感を煽り足りないのだろうか。
すかさずモニター中央に〈マスタード〉の略図が浮かび、点滅を始める。
目が霞むせいで見えにくいが、どうやら内向きの矢印に包囲されているようだ。恐らく、全身に圧力が掛かっていることを示しているのだろう。




