⑧HON当に安全なのはガソリンスタンド
〈マスタード〉の唇は、強力な吸盤になっています。
これはモチーフになったプレコも同様で、唇で水槽に貼り付いたりします。
次回の番外編では、そんなプレコたちに付いて迫っていきます。
「やるっきゃねぇか!」
やけっぱちに叫び、〈マスタード〉は歯をさらけ出す。
刹那、頭に浮かぶ白黒の点描。
イノシシのように頭を突き出しているのは、〈YU〉だろうか。
どうやら眉間に居座るお節介が、背後から迫る危機を伝えているらしい。
「どわわっ!」
反射的に奇声を上げ、〈マスタード〉は右に跳ぶ。
着地した途端、鼻一杯に広がる焦げ臭さ。
今度は、バイザーが警戒を促しているらしい。
「ホント、躾のなってねぇ化け物だな! 他人様に用があるなら、順番に並べよ!」
〈マスタード〉は舌を鳴らし、臭いの元に視線を飛ばす。
案の定、目に入ったのは〈YU〉で、大きく開いた口は提灯を輝かせていた。
「吐かせるかよ!」
〈マスタード〉は迷わずクラウチングスタートを切り、手の平の口を開く。
だがやはり、鋭敏になりすぎた感覚が邪魔をする。
茶々を入れてきたのは、側線を模したセンサーだろうか。
左右に分断された気流に、口笛を思わせる風切り音――。
どうも目で見えないほど遠くから、〈YU〉が降って来ているらしい。
「ああっ、もうっ!」
〈マスタード〉はブレーキを掛け、右後方のマンションまで跳ぶ。
同時に圧縮空気を噴き出し、一旦、上空に待避する。
白煙が地面に吹き付け、一階、二階、三階とベランダが視界を流れ落ちていく。程なく八階に辿り着くと、〈マスタード〉は全身の唇を外壁に押し当てた。
すかさず内部の真空ポンプを起動させ、壁と唇の間にある空気を吸い出していく。一瞬だけ掃除機そっくりな音が鳴り響き、吸盤と化した唇が外壁に貼り付く。
やっぱり説明書には、全文ひらがなでこう書かれていた。
でんしゃどうしがひっぱりあっても、ぜったいとれないぞ!
「やっぱ、集中出来ねぇよ」
情けなく弱音を吐くと、子供っぽい唸り声が後に続く。
事前に危機を察知し、痛い思いをしないで済むのはありがたい。
さすがは地震さえ予知する(らしい)ナマズくんだ。
だがその敏感すぎる忠告のせいで、回避に追われてしまうのは大問題だ。
攻撃は最大の防御。
避けていたって、敵の数は減らない。いや、さては不老不死と言うアドバンテージを活かし、〈YU〉が天寿を全うするのを待つつもりか。
仮に直撃を受けたとしても、痛みはほとんどない。
そもそも〈マスタード〉と半平は、延髄にある剣山状の端子で繋がっている。
剣山を首に刺す……。
説明書を読み進めるまでは、拷問にしか思えなかった。
その実、カの口吻――血を吸う針を基に開発された端子は、ほとんど痛みを感じさせない。何でも痛点をすり抜けるほど細く、構造にも工夫が施されているそうだ。
ダメージは振動、触感、温度変化、圧力、電気……と幾つかに分解、計測された後、半平に伝えられる。
とかく痛みと言うのは敬遠されがちだが、危険を知るためには重要な情報だ。銃撃を受けても、炎に焼かれても何も感じなかったら、重大なダメージを受けていることに死ぬまで気付かないかも知れない。
装着者に伝えられる痛みは、動きを止めることのない程度に和らげられている。現に光弾を喰らった時も、煮え立ったおでんのような熱さを一瞬味わっただけだった。
それでも避けてしまうのは、生物の性だろうか。
いや、それ以上に慣れていないのかも知れない。
自分が化け物になったことに。あるいは、〈PDF〉を纏っている現実に。
〈YU〉の牙にしろ、爪にしろ、人間だった頃ならなすすべもなく引き裂かれていた代物だ。燃え盛る光弾もまた、今朝までは閻魔大王とのホットラインだった。と言うか、生きたまま火葬されたせいで、トラウマになってしまったのかも知れない。
ともかく、重大なミスを犯してからでは遅い。
ここは一度、先輩にアドバイスを求めるべきだ。
「ハイネっ!」
〈マスタード〉は眼下に目を向け、鉛筆大の人影に呼び掛ける。
頼みの綱のハイネは、逃げ遅れた人々をガソリンスタンドに集めていた。
街が炎に包まれている時に、何を考えている?
ガソリンが誘爆したらどうするんだ?
そんな風に、一般の人々は彼女の正気を疑うかも知れない。
だが消防団見習いの〈マスタード〉にしてみれば、模範解答だ。
多数の〈YU〉が跋扈している以上、簡単に人々を逃がすことは出来ない。
しかも彼女は、自力では動けない負傷者を抱えている。
状況を考えるなら、安全な場所に人々を集めるしかない。
そして街中で一番安全な場所は、何を隠そうガソリンスタンドだ。
危険物を扱う建物は、消防法や建築基準法で厳しく規格が定められている。災害の際には絶対近寄ってはいけないように思えるが、実際は一般の住宅より遥かに安全だ。
その上、周囲が防火壁に囲まれているため、辺りが炎に包まれても延焼しにくい。実際、〈マスタード〉は一面の焼け野原に、ガソリンスタンドだけが建った写真を見たことがある。
第四種危険物のガソリンは、地下深くのタンクに溜められている。そのため、地表が炎に包まれた程度で、誘爆を起こすことはない。驚くべきことに、阪神大震災が起きた時も、ガソリンスタンドは一棟も焼け落ちなかったと言う。
「なんつーかさ、情報量多すぎなんだけど!」
「情報量……センサーのことか」
ハイネは〈3Z〉隊員を地面に横たえ、少し考え込む。
「必要最低限以外のセンサーを切っちゃいましょう!」
「えぇ!? 大丈夫なわけ!? 何も見えなくなっちゃったりしない!?」
思わず声を裏返し、〈マスタード〉は〈YU〉の大群を窺う。
目を瞑ってあそこに行けと言われると、やけに爪や牙が眩く見えてくる。
「五感は残ります! 感覚が鈍ったせいで攻撃を受けたとしても、彼等の力では装甲を破壊出来ない! 私も何度か光弾の直撃を受けましたけど、へっちゃらでした!」
声を張り上げた拍子に蹌踉めき、ハイネは防火壁に手を着く。
顔色は大分よくなったが、満身創痍であることに変わりはないらしい。
「元々〈マスタード〉は、夜とか濁った水中とか、視界が利かない状態での行動に特化した〈PDF〉です! センサー類の多さにしろ、独特な武装にしろ、初心者の半平さんが扱うにはトリッキー過ぎる!」
ハイネは裾を捲り、額の汗を拭う。
ちっちゃなおへそが露わになると、立て続けに絶壁がちらつく。
そう、下乳と呼ぶのもおこがましい絶壁が。
「本当は〈シュネヴィ〉みたいなのから慣らしていくのがいいんですけど、今はそんなこと言ってられない!」
「だから余計な情報を遮断して、補助輪付けるわけね!」
「……ただ、〈マスタード〉と〈シュネヴィ〉では、装甲の厚みが違います」
ハイネは唐突に項垂れ、口惜しそうに眉を寄せる。
「……攻撃を受けても、絶対に安全だとは言い切れない」
「えぇ!? 今までは安全だったの!? 俺、結構、綱渡りだったんだけど!?」
今度は意図的に声を裏返し、大袈裟に身体を揺らす。
「……こんなとこ来た時点で、安全なんて単語忘れてるわ」
自然と彼女を見る目が細くなり、強面の髑髏にしては柔らかい笑みが漏れる。
「……そうですよね、すみません」
ハイネは苦笑し、〈マスタード〉の狙い通りに顔を上げた。
「センサーの切り方は判りますか?」
「カカオ中毒が付箋の場所ミスってなきゃね! 後はカンと実践! それがオレ流だわさ!」
〈マスタード〉はキラリと歯(仮面の)を見せ、景気付けに手を叩く。
そう、手を叩き、吸盤代わりの口を壁から剥がしてしまった。
ヤッベェ! と思っても、もう遅い。その瞬間、身体が急降下し、七階、六階とベランダが視野の上に流れ去っていく。
「ぬぉぉぉぉ!」
〈マスタード〉はじたばたし、じたばたし、コイキングのようにじたばたし、何とか四階の壁に吸い付く。あぶねぇあぶねぇ、後一歩で時計塔withジャッキーになるところだった。




