⑤E外とナマズは優秀
タイトル通り、今回はナマズの蘊蓄がメインです。
有名なカンディルとか、ハトを喰うナマズの話とかが出て来ます。
愚鈍に見えるナマズですが、獲物を襲う時の動きはまさに神速です。
あのすばしっこいハトを、難なく丸呑みにしてしまいます。
(ハトが水中から襲われるのに慣れていないこともあるそうですが)
「お待たせ~」
〈マスタード〉はフレンドリーに呼び掛け、〈YU〉の群れに目を戻す。
職員室で向かい合った時は、絶望と恐怖が身体を震わせた。
口の中にぶら下がった光が、死神のランタンにしか見えなかった。
今は築地でウィンドーショッピングしている気分だ。
鍋にするか、どぶ汁にするか、今晩の献立を考えるのが、楽しくて仕方ない。
軽やかな気分には、〈マスタード〉が「ナマズ」の〈印象〉を宿すことも影響しているのだろう。
正直、大当たりだ。
数ある卒塔婆の中から、この一本を選んだ自分をハグしてやりたい。
サメ、ピラニア、エイと、人間に危害を加える魚は多い。
あまり知られていないが、ナマズもまた彼等の仲間だ。
地震を予知する程度しか能がない?
川底でのんびりしている呑気なお魚?
見当違いも甚だしい。
ナマズはのんびりしているどころか、極めて凶暴な魚だ。
いや、「果てしなく貪欲」と言うべきだろう。
現にほとんどの種類が雑食性で、水草、魚、鳥、人間と、大きな口に入るものなら何でも呑み込む。腕をエサにするヌードリングはおろか、石鹸で釣っている地域もあるほどだ。驚くべきことに、スペインやフランスに住むヨーロッパオオナマズは、川岸に来たハトを捕食している。
しかもナマズは鈍いどころか敏感で、「全身が感覚器」とまで言われている。
水中が暗かろうと、濁っていようと、障害にはならない。彼等は臭いや震動、水流の動きなどを偏執的に追い、的確に獲物を捕らえてしまう。
更に重要なのが、獲物の「味」だ。
ナマズは全身に、二〇万個もの「味蕾」を持つ。
「味蕾」は味を感じ取る器官で、「繊細」な人間の舌にも備わっている。ただし、その数は六〇〇〇個ほどで、「鈍感」なナマズの三〇分の一にも満たない。
「全身に味蕾を持つ」と言うことは、「全身が舌である」ことに等しい。
ナマズは水に溶けた味を全身で感じ取り、獲物を追い掛けていく。
チャーミングなおヒゲも、正体は味蕾の集合体だ。
件のヨーロッパオオナマズは、これを突き出しながらハトに近付いていく。そしてヒゲにハトが触れた瞬間、水中から飛び出し、獲物を丸呑みしてしまう。
またナマズの体表に幾つも空いた穴は、センサーの役割を果たしている。
これには生物の発する微電流を感知する機能があり、獲物を探すのに役立つと言う。
電気エイでも電気ウナギでもない普通の魚が、放電することなどあるのか?
「電気」と言う単語を聞いた人は、首を傾げるかも知れない。
だが実際のところ、生き物は歩く発電所だ。脳の活動、心臓の収縮、筋肉を動かす時と、およそそこにいるだけで電気を発している。
ナマズのセンサーは極めて鋭敏で、乾電池の一〇万分の一程度の電気まで感知する。地震を予知するように暴れだすのも、電磁波の変化を感じ取るためらしい。
ちなみに、サメも頭部に電気を感じ取る器官を持っている。
「ロレンチーニ瓶」と呼ばれるそれは、ナマズの一〇倍に相当する精度を誇ると言う。サメはこれを、海底に隠れた獲物を見付けるのに使っているそうだ。
ナマズはサイズも驚異的で、メコンオオナマズやヨーロッパオオナマズは二㍍を超える。ボストンバッグのように巨大な口は、イヌも一呑みにするだろう。
幸い人間を捕食することはないとされているが、襲われたと言う話は幾つか存在する。何しろ、相手はとびきりの巨大魚だ。何かの拍子にエサと見なされたなら、なすすべもなく水中へ引きずり込まれるだろう。
では、小型のナマズなら危険はないか?
答えはノーだ。
ナマズは捕食された場合に備え、背ビレと尾ビレに鋭い棘を備えている。
何でも喰われそうになると、棘を立て、捕食者の口を突き刺すらしい。
ナマズと言えば淡水魚のイメージが強いが、海にもゴンズイと言う種が棲息している。
彼等は一〇㌢から三〇㌢程度の小さなナマズだが、棘に毒を持っている。
ゴンズイに刺されると、激痛と共に傷口が赤く腫れ上がる。
最悪の場合、患部が壊死することもあると言う。〈マスタード〉の師匠である魚安の大将は、死亡例もあると語っていた。
厄介なことに、この毒はゴンズイが死んでも消えない。
その上、棘自体が非常に鋭く、ゴム製の長靴も貫通する。
小さくても危険なナマズは、ゴンズイだけではない。
ある意味で彼等以上に恐ろしいのが、アマゾン川に棲息するカンディルだ。
彼等もまた一〇㌢から二〇㌢程度のナマズで、個体によってはドジョウより小さい。にもかかわらず、棲息地であるアマゾン川流域では、ピラニア以上に疎まれている。
そもそも、ピラニア=凶暴と言うイメージは誤りだ。
むしろ、ピラニアの仲間には気弱な魚が多い。
事実、一緒にプールへ入ると、群れで人間のいないほうに逃げてしまう。
これは水に血を混ぜても同様で、我を忘れて襲って来るようなことはない。アマゾンには三〇種程度のピラニアが棲息しているが、危険なのは四種だけだと言う。
ただし、襲われた人がいるのは事実だ。
特に幼児や極端に弱った人間の場合、臆病な種でも群がってくると言う。また産卵期に縄張りへ踏み込むと、我が子を守ろうとした親に攻撃されることがある。
ピラニアの歯はカミソリのように鋭く、簡単に人間の肉を切り裂く。
間違っても、軽い気持ちで近寄っていい魚ではない。
カンディルもまた肉食で、群れを作り、自分より大きな獲物に襲い掛かる。
しかも、彼等には獲物の身体に潜り込み、体内から貪ると言う習性がある。
犠牲になるのは哺乳類や大型魚で、体内に潜り込む方法は種によって異なる。
トリコミュクテールス科のカンディルは、エラから侵入し、生き血を吸う。
対してケートプシス科のブルーカンディルは、獲物に齧り付く。そうして空けた穴から体内に侵入し、獲物の肉を食い荒らしてしまう。
彼等は非常に獰猛で、エサと見れば一斉に襲い掛かって来る。信憑性は不明だが、尿道から人間の体内に侵入した事例も報告されている。
〈マスタード〉はカンディルの大群に、エサとなる魚を入れる映像を見たことがある。
その瞬間、彼等はバタ足のように水面を泡立たせ、一斉にエサに食らい付く。
哀れな魚は、あっと言う間に骨と皮だけになってしまった。
カンディルはウナギのように「ヌメヌメ」していて、掴もうにも掴めない。
しかも彼等のヒレには「返し」が付いていて、簡単には抜けないようになっている。人体に潜り込まれてしまった場合は、傷口を切開して取り出すしかない。
アマゾン川流域では、更に恐ろしい事件も起きている。
ある時、発見された土左衛門の腹に、銃創のような穴が空いていた。
不審に思い、解剖してみたら、内臓の代わりにカンディルが詰まっていたそうだ。
恐ろしい話だが、被害者は溺死してからエサになったわけではない。
何でもカンディルに喰い殺された結果、川の藻屑になってしまったらしい。
アマゾン川流域では、週末ごとに酔っ払いが川へ落ちているとも言われる。
その内の何人かは、何らかのナマズの餌食になっているそうだ。
「こんなに差が付いちゃって、勝負になるのかねえ」
自分と〈YU〉を比較すると、思わず笑みが漏れてしまう。
元々、怪物VS怪物、歩く屍VS半魚人(?)で、階級差もほぼない。
だが一方は、鉄壁の骸骨を装着している。
その上、強力なナマズの〈印象〉だ。
余裕を感じるどころか、申しわけなくなってしまう。
いくら何でも、ハンデがありすぎだ。
「さあさあ、どっからでもよってらっしゃい! 見てらっしゃい! 解体ショーの始まりよ!」
魚屋で呼び込みをしていた時のように声を張り、〈マスタード〉はパン! パン! パン! と手を叩く。同時に背中の岩石が跳ね回り、ビン! ビン! ビン! と天を突いた。
「どりゃー!」
騎馬戦っぽく掛け声を上げ、〈マスタード〉は〈YU〉の大群に駆け寄る。
気分はもう、イワシの群れを追い立てるクジラさんだ。
負けるはずがないと思うと、自然とスキップを踏んでしまう。
そう、〈マスタード〉は完全に忘れていたのだ。
人間、いや化け物でも、調子に乗るとロクなことがない。
「……あれ?」
唐突に膝の力が抜け、〈マスタード〉を跪かせる。
途端に籠手が、胸当てが重みを増し、全身の骨を軋ませる。
軽々背負えていた岩石が、今や「こなきじじい」のようだ。




