⑥間違いと言う名の正しさ
辛気臭かった13章も、今回で終了です。
次回からは最終決戦。
長々とタイトル詐欺を続けてきましたが、ついに〈マスタード〉が登場します。
深海に関する蘊蓄や、「箸休め」も挟みますので、どうかご期待下さい。
ちなみに〈マスタード〉のモチーフは、最近テレビにも取り上げられたあの外来魚です。
「俺は……〈魂〉を遺してた」
事実を口にしてみても、まるで実感は湧かない。
直感的に触れてしまった胸にも、人魂のような熱さや輝きはなかった。
ただ、心臓は昨日までと同じように、規則正しく鳴っている。
力強く送り出される血は、胸に当てた手に温もりを広げていく。
これが本当に、一度停まったのだろうか。
自分自身体験したことなのに、時間が経つほど疑わしくなってくる。
「なぜあり得ない事態が起きるのか? そいつは誰にも判らん。だがな、個人的意見と前置きした上で、あるお人よしが言っていたよ。〈魂〉が遺った人は、〈黄金律〉に突っ返されたんじゃないか。きっと、まだやらなければいけないことがあるって、ケツを叩かれたんだ、とな」
ディゲルは柔らかに笑い、細かく背中を揺らす。
恐らく、熱弁するお人よしを思い出してしまったのだろう。
「お人よしの見解が的を射ているのか、お花畑なざれ言に過ぎないのか、無学な私には判断出来ん。だが、現実に君は生きている。もう一度動かせるようになった手を、どう使うのか。よく考えてみるんだな」
ディゲルは軽く手を振り、裏門に向けて歩き出す。
どこか満足げな後ろ姿は、見る見る黒煙の中に消えていった。
「もう一度、動かせる……」
半平は試しに両手を広げ、親指を曲げてみる。
よし、空気は砕けない。
注意深く周囲を探りながら、残る四本の指を開け閉めしてみる。
小指を曲げたところで火柱が上がったが、これは偶然だ。
いくら元人間の化け物と言っても、ジャミラとは違う。
火を吐けるほど多芸ではない。
死後硬直の名残だろうか。
改めて意識すると、指の関節に強張るような感覚がある。
とは言え、唸らなければ動かせないほどではない。
「動かそう」と思うだけで、パーにもチョキにもすることが出来る。
そうだ、動かすには思う必要がある。
十徳ナイフ以上に幅広く活躍する手も、動かす意思がなければ何の役にも立たない。
「今、必要なのは……」
半平は恐る恐る指を畳み、拳を編む。
半自動的に表情が険しくなり、出来たばかりの凶器を睨み付けた。
これは誰かの命を奪う形だ。
だが一方で、人間には敵わない化け物を倒すのにも使える。
どちらの場合も形は違わないのに、何が結果を左右するのか?
言うまでもない。
沼津半平の意思だ。
何となく固めただけの手は、打製石器のようにごつごつしている。
こんな不細工な塊に宿るほど、善悪は安くない。
いや、スタイリッシュな銃にも、芸術品のような日本刀にも、正義はない。悪はない。一発で世界を終わらせるミサイルでさえ、それはただの「力」だ。
それこそ旧石器時代から現代まで、いつだって善悪は力を振るう側にあった。
化け物としか呼べない力は、徐々に心まで人間ではなくしていく。
だが今のように厳しく見張っていれば、疑いの眼差しを向けることをやめなければ、暴走を未然に防げるかも知れない。人一倍誰かの目を気にする化け物は、きっと、いい子ちゃんぶり続ける。
醜い偽善でも、たくさんの笑顔を生むことが出来た。
なら、不細工な拳にだって同じことが出来るはずだ。
肩がぶつかっただけで人を殺める肉体では、表通りを歩くことは出来ない。
だが、ハイネは化け物になると知っていた。
知っていて、甦らせた。
欲望のままに生きられる力を得ても、沼津半平なら大丈夫だと信じてくれた。
そして、命まで懸けてくれたのだ。
永遠に裏通りを進む? それくらいの代償は払うべきだ。
確かに、ハイネは化け物になることを教えなかった。
だが、あの闇の中で告げた一言一言に、嘘はない。
言葉と共に散らした汗が、手を握った時の力が、彼女の本気を証明している。
今、不用意に行動すれば、永遠に正解を見失うかも知れない。
だが今動かなければ、死なせてしまう。
三途の川の向こう岸までストーキングしてきて、建前ではない言葉をくれた彼女を。
永遠に自分を責める羽目になるのを見越した上で、沼津半平を生き返らせてくれた彼女を。
それは、永遠に間違い続けるより遥かに恐ろしい。
行動するのが間違いだと言うなら、間違いで上等だ。
正解がどんなに清く麗しくても、目の前の残り火に投げ込んでやる。
「立て……!」
半平は自分に発破を掛け、情けなく丸めていた背筋を伸ばした。
目の前の煙を拳で貫き、その先に転がっていた袱紗を掴む。
瞬間、腹が鳴り、ぐぅ~っと間抜けな音をまき散らした。
決断を下したことで、気が抜けてしまったのだろうか。
「一度死んでも、腹は減るんだな。しかも、こんな緊急事態なのに」
本当は呆れるべきなのだろうが、妙に感心してしまう。
思い返してみれば、朝ご飯のトーストを食べて以来、何も口にしていない。
今後の「大一番」を考えれば、少しでも腹ごしらえしておきたいところだ。
しかし生憎、ポケットにはガムも飴も入っていない。
「贅沢言えねぇか……」
若干の抵抗を押し殺し、半平はディゲルの捨てた板チョコを拾う。
ゆっくりと、慎重に、朽ちた吊り橋を渡るようなペースで、チョコを口に運んでいく。
パキっと割れるチョコも、化け物の手に掛かれば鈍器と同じだ。
人間だった頃のように突っ込もうものなら、前歯を砕くかも知れない。
噛み切るおそれのある舌は、丸めて歯の裏に隠しておく。
長々と泥水に浸かっていたチョコは、ビート板のようにへなへな。
咀嚼すればするだけ砂利が舌を研磨し、口中に土の苦みが広がっていく。絶妙に饐えた臭いは、一年間洗わなかった上履きそのものだ。
いいから食え! ともかく食え!
半平は自分自身に無茶ぶりし、両手で口を塞ぐ。
本能に逆らって噛み続けると、徐々に悪臭が薄れていく。入れ替わりにミルクの香りが漂いだし、苦さの担当が土からカカオに代わった。
口中に仄かな甘みが広がり、砂利に削られた舌を包み込む。ひりひりとした痛みが和らぐと、咀嚼音の合間に笑みが交じるようになった。
そうだ、多少の不具合には目を瞑れ。
無理矢理にでも呑み込めば、皆の顔を甘く綻ばせる一時が訪れる。
歪だからと言って投げ出してしまったら、誰の顔も苦いままだ。
半平は心に刻み込み、一息にチョコを詰め込む。
途端、包み紙の銀紙と銀歯が接触し、口一杯ににちゃあっとした電撃が走る。絶叫を強いられることにはなったが、弛んだ精神に活を入れるには丁度よかった。




