⑤蔓延する盲信
「また泣き言か。ほとほと辛気臭い男だな」
ディゲルは舌を鳴らし、五個纏めてチョコレートボンボンを煽る。
それから膝の上に置いていた袱紗を取り、半平の前に放り投げた。
放物線が水溜まりに飛び込み、濁った飛沫が噴き上がる。
「開けたまえ」
ディゲルに命じられた半平は、ただ首を左右に振る。
唇を開くどころか、顔を上げることも出来ない。
「開けろと言っている!」
猛々しく怒鳴り、ディゲルは地面を踏み抜かんばかりに立ち上がる。
一息に半平の胸ぐらを掴み、彼女は懐から拳銃を取り出した。
「意気が返らないなら、貴様はただの屍だ! なまじ生きているフリを晒し、ハイネさまを苦しませ続けるなら、この場で私が始末を付けてやる!」
ディゲルは半平の口に銃口をねじ込み、苛烈に捲し立てる。途端、チョコレートボンボンの食べかすが半平の顔面に吹き付け、ブランデーの香りが鼻を包み込んだ。
「……クソ」
最後に小さく毒突き、ディゲルは大きく息を吐く。
続いて半平の口から拳銃を引き抜き、代わりに拳を突き出した。
強烈な衝撃が頬を撥ね飛ばし、風見鶏のように身体が回る。
瞬間、半平は血の混じった唾を吹き出し、顔面から地面に倒れ込んだ。
「効くだろう? 貴様の力は〈黄金律〉の計算ミスによるもの。肉体は人間と同じだからな」
「ぐっ……ああ……」
口の中に血の味が充満し、頬の皮膚が、骨が、燃えるように疼きだす。
堪らずぬかるみを転げ回ると、背中が袱紗に乗り上げた。
その拍子に結び目が解け、袱紗の中身が覗く。
思いがけない再会は、頬の痛みを急速に引かせていった。
「使えないんだろ……?」
投げやりに確認し、半平は袱紗を蹴飛ばす。
「確かに、人間に〈詐術〉は使えない」
ディゲルは顔を紅潮させたまま、にんまり笑う。
「だが、その話が化け物の君に、どう関係ある?」
「俺に……それが使える」
髑髏のレリーフと目を合わせると、無意識に笑みが漏れる。
だが半平は即座に表情を引き締め、袱紗から顔を背けた。
「だとしても、俺にハイネの真似をする資格なんて」
「うじうじ思い悩み、ぐだぐだ迷い、えんえん自分を信じられないからか?」
見事に本心を代弁された半平は、口を噤む以外になかった。
ことあるごとに迷う化け物が、力を得る?
正直、ヤジロベエにカミソリを装備させるようなものだ。
危なっかしくて、とても見ていられない。
ヤジロベエは少し突っつかれただけで、あっちへふらふら、こっちへふらふら右往左往する。
どこに刃を向け、何に切り付けるかは、本人にも予測出来ない。無分別に凶器を振り回し、近付く人間を傷付けるだけ傷付けて、最後には自分自身も墜落する。
「それだ。だからこそ、私は君に力を託せる。いや、託したいのだよ」
力強く言い切り、ディゲルは半平の顔を指す。
知らんぷりをしているような澄まし顔で、彼女は半平の手を見つめている。
そう、袱紗の方向に伸ばしたまま、どうしても引っ込められない手を。
「自分を縛るための信念も、他者に指図する大義名分に使えば、エゴでしかない。第三者に規定されるべき正義も、自分の物差しで量るようになれば独善だ」
高らかに宣誓し、ディゲルは深々と頷く。
「自らの信じる教義のみを至高と考え、異なる神を崇める人々を攻撃する狂信者。我が子の、いや、自分の遺伝子の価値を信じ込み、無理難題を要求するモンスターペアレント。紛争地帯から学舎まで、争いを起こすのは決まって自分を信じる連中だ。そう、古今、世界を焼く問題の裏には、自分を信じる輩が潜んでいる」
ディゲルは艶っぽく失笑し、くすくすとこそばゆい音色を漏らす。
「と言うかな、自分の考えを絶対視していない人間は、争いなど起こさないんだ。何せ、他人の言葉に耳を傾けられるからな」
薄く覗いていた八重歯を引っ込め、ディゲルは表情を引き締めていく。
「世の中には、『自分を信じろ』などと言うスローガンが蔓延している。耳を貸しているとな、手前を信じるのが限りなく困難なことに思えてくる。笑わせるな。大衆から政治屋からテロリストまで、世間は自分を信じている連中だらけだ。本当は自分を信じることなんて、息を吸うより容易いのさ」
ディゲルはチロルチョコを口に投げ入れ、しばらく間を置く。言葉に熱がこもるに従い、早口になっていたペースを整えようとしたのかも知れない。
「本当の困難は自分を疑うこと。疑い続けることだ。一度、己を信じることをやめれば、自分は正しいことをしているのかと、絶えず不安に苛まれる羽目になる。時には自分の誤りを受け入れたせいで、堪えがたい痛みを味わうこともあるだろう。自分を信じていた頃には何気なく過ぎていった日々が、拷問にしか思えなくなるかも知れない」
苦い風邪薬を服用したように、ディゲルの顔がシワを刻んでいく。
そう言えば、半平には聞き覚えがある。
チョコは当初、薬だった。
カカオの産地である南米では、ドリンク剤や解熱剤として使われていたと言う。
「それでも安直な答えに縋らず、よりよい方法を追求し続ける。本当は君も判っているのだろう? ぐだぐだ迷っているのは、ハイネさまも一緒だ。あのお方の進む道に、『揺るがぬ信念』などと言うお手軽な道しるべはない。ハイネさまが歩むのは、迷いと言う蔦に覆われ、疑いと言う棘を掻き分けなければ進めない、荊の道だ」
ディゲルは半平に顔を寄せ、睨むように瞳を覗き込む。
加えて赤茶の髪を振り乱し、懸命に訴え掛けた。
「安易に自分を信じず、常に自身の行動を疑い続ける。疑いを持つ負い目に思い悩みながらも、それに潰されずに剣を振るう。そういうものこそが、力を持たなければならない。でなければ、誰が盲信から人々を守るのだ」
「迷いがあっても、戦っていい……」
悔しさや恥ずかしさでぐちゃぐちゃだった頭が、公式を解いた時のように澄み渡っていく。
ごく自然に袱紗を眺めると、しつこく滲んでいた涙がピタリと止まった。
「これ以上、言葉は必要ないようだな」
ディゲルは袱紗を拾い上げ、半平の前に置く。
直後、彼女の懐から着うたが漏れ出し、辺りに女性の歌声が響き渡った。小躍りするようでどこか物悲しいメロディは、「チョコレートは明治」に他ならない。
「ああ、そうか。判った」
ディゲルはスマホを出し、手短に会話を済ませる。相づちの役目を舌打ちが担っていたところを見ると、状況は芳しくないようだ。
「悪いが、状況が状況だ。これで失礼させてもらうよ」
ディゲルは断りを入れ、半平に背中を向ける。
にもかかわらず、一歩目を出した側から足を止め、半平に語り掛けた。
「ああ、そうそう、死者蘇生が不可能な理由を教えてなかったな」
時間が惜しいのか、ディゲルは少し喋るスピードを上げる。
「生物と言う生物は、〈魂〉を宿している」
「タマシイ……?」
思わずオウム返しし、半平はまばたきを繰り返す。
〈詐術〉絡みにしては、珍しくオカルト臭い単語だ。
「判りやすく言えば、〈黄金律〉に『生きている』と直訴するための装置だ。この訴えにお墨付きをもらっているからこそ、全生物は生きていられる。万が一にも訴えを棄却されたなら、その瞬間にお陀仏だ」
ディゲルは滑稽なほど神妙な表情を作り、両手を合わせる。
「生物が医学的な死を迎えると、〈魂〉もまた肉体を離れる。死後の〈魂〉には、いかなる方法を以てしても干渉出来ない。何しろ肉体を離れた瞬間、跡形もなくなってしまうのでな。命の要となる〈魂〉を呼び戻せない以上、死者蘇生も不可能と言うわけだ」
「死ぬと〈魂〉が消える? 〈操骸術〉は死人の〈魂〉に、〈発言力〉を送り込むんじゃ……」
「よしよし、きちんと講義を拝聴していたようだな」
嬉しそうに答え、ディゲルは何度も顎を沈める。
「君の言う通り、死人の身体に〈魂〉は遺らない。正確には〈魂〉を遺した亡骸を、〈詐術師〉は死人と定義しない。それでもごく稀に――そう、五〇〇年間死体の山を這いずり回っても、二〇人と巡り逢わないような確率で、〈魂〉を遺したままの屍がある」




