④タモリ倶楽部
章題にもなっている「袱紗」とは、香典やご祝儀を包む布です。
しかし彼女の抱えているそれには、何か違うものが入っているようで……。
「現実の唐突さでも恨んでいるのかね」
山彦のように聞こえてきたのは、ディゲル・クーパーの声だった。
校庭の外に立つ彼女は、必死に目の前のフェンスを越えようとしている。
何やら苦戦しているが、どうも小脇に抱えた袱紗が邪魔らしい。
「ええい! うっとうしい!」
ディゲルは恥ずかしげもなく足を上げ、一息にフェンスを跨ぐ。
途端、ワンピースの裾が捲れ上がり、瑞々しい太ももを露わにした。
「鈍ってるな、私も。『黒い雷神』が名前倒れだ」
ディゲルはコートの土埃を払い、半平に歩み寄る。
続いてポケットからチョコを取り出し、半平に突き付けた。
「チョコ、食べるかね?」
半平は唇を噤み、彼女から目を逸らす。
チョコを受け取るどころか、質問に答える気にもならない。
「人が鼻血の口実を与えてやったのに」
面白くなさそうに呟き、ディゲルはワンピースの裾を振る。
さっきさんざん晒した太ももを、もう一度見せ付けているらしい。
「ええっと……、何の話をしていたかな? ああ、そうそう、現実、現実だ」
ディゲルは咳払いし、一口だけチョコを囓る。
「現実が計画通りに動くなんて思うなよ。人生なんて行き当たりばったりだ。かく言う私もな、あわよくば玉の輿をと、資産家の家に潜り込んでみたんだ。勿論、座して金持ちが言い寄ってくるのを待っていたわけではない。スカートを短くしてみたり、部屋の鍵も掛けずに着替えをしてみたりと、思い付く限りの策は労してみたさ。ところが現実のヤツと来たら、これっぽっちも思うようにならん」
忌々しげに言い放ち、ディゲルはチョコを投げ捨てた。
「働かずに贈答品のチョコばかり貪っていたら、ブートキャンプに強制連行されてな。今ではすっかり、秘密組織の隊長殿だ。幼稚園の参観日に、『将来の夢はお嫁さん』と言っていたこの私がだぞ?」
ディゲルは豪快に自分の現状を笑い飛ばし、チョコの食べかすをまき散らす。
「しけたツラするな、少年。むしろ君は喜ぶべきだ」
けしかけるように鼓舞し、ディゲルは半平の背中を叩く。
「考えてもみろ。その力があれば、やりたい放題だぞ。警察にも軍隊にもこの私にも、本気になった君は止められん。欲望のままに奪い、気に喰わなければ殺せ。目に入った女を、手当たり次第に襲うのもいいな」
一体、どういうつもりだろう。
突然、ディゲルは尻を突き出し、リズミカルに振り始める。
ちょくちょく聞こえる鼻歌は、「タモリ倶楽部」のオープニングだろうか。
「ほら、早速ここに『美』少女がいるぞ。安心しろ。〈詐術師〉も様々でな。私は頭脳労働向きなほうだ。押し倒してきた男を、天井までブッ飛ばす力はない。ハイネさまと違ってな」
「……誰にも止められない? デタラメ抜かすなよ」
やる気なく嘲笑し、半平はディゲルを窺う。
「……ハイネは甦った俺が、どうなるか知ってた。いるんだろ? 他にも同じ目に遭ったヤツが」
「ほう、この状況でも物事を冷静に見られるのか。君を勧誘した私の目も、強ち曇ってはいないようだ」
大袈裟に感心し、ディゲルは何度も頷く。
「尤も、的確に自分の現況を思い知らせる冷静さなど、今の君にとっては不幸でしかないがね。そう、正真正銘、化け物になった君にとっては」
「化け物だと……!?」
思わず奥歯を噛み、半平はディゲルを睨み付ける。
「自分で自分を罵る分にはいいが、他人に言われると腹が立つか?」
ディゲルは懐から麦チョコを取り出し、裏門に視線を逃がす。
途端、余裕の笑みを浮かべていた彼女が、一転して顔を顰めていく。
「しかし、救った相手に罵声を求めるとはな。あの方も大概人がいい。男に『好きなようにしろ』などと告げるとは、おぼこにもほどがある。はっきり言ってやればいいんだ。『命を懸けて助けてやったんだ。土下座して感謝しろ』とな」
ディゲルは麦チョコを口に流し込み、憂さを晴らすように噛み砕く。
「……命を懸けた?」
穏やかではない単語に、半平は自然と眉を顰めていく。
「あれは、〈操骸術〉はそういうものなのだよ。まさか不自然に思わなかったのかね? あの頑健極まるハイネ・ローゼンクロイツ嬢が、立てなくなるほど消耗しているのを」
「それは……怪物にやられたのかと」
改めて指摘されると、半平は口ごもってしまう。
何しろ職員室でさすまたを投げた辺りから、半平の記憶はぼんやりとしている。
死ぬ直前、ハイネと言葉を交わしたのは、何となく憶えている。
だが彼女の状態はおろか、会話の内容さえ不鮮明だ。
自分を庇うつもりはないが、あの時は意識があるだけでも奇跡のような状態だった。そもそもこんがり焼かれたせいで、鼓膜や目が破壊されていたのかも知れない。
「〈詐術〉には二つの不可能がある」
仰々《ぎょうぎょう》しく切り出し、ディゲルは二本のチョコバーを出した。
「一つ目は時間移動。端的に言えば、タイムトラベルだ」
ディゲルは早くも一本目のチョコバーに齧り付き、瞬く間に平らげていく。
「〈詐術〉の基盤となるのは、〈黄金律〉の組み上げた物理法則だ。そいつを必要な部分だけコピペして、術者にとって都合がいいように改変する。生憎、〈黄金律〉に通じるレベルの嘘を作るには、恐ろしいほど時間が掛かるのでな」
一度説明を中断し、ディゲルは歯の間に挟まったチョコを、小指の先で掻き出す。
「ところが、タイムトラベル――厳密には過去への移動の場合は、未だに大本となる理屈が発見されていない。一から作ろうにも、時間移動なんてトンデモな現象だからな。〈黄金律〉を納得させる嘘を作るのに、何万年掛かることやら。いや、完成した頃には、太陽がなくなっているかも知れん。それ以前に、どんな嘘を作ればいいのか、皆目見当が付かん」
ディゲルは手近なコンクリ片に腰掛け、足を組む。
「もう一つが、お待ちかねの死者蘇生だ」
「死人を生き返らせることは不可能……!?」
半平は眉を寄せ、刺々しく言い返す。
「じゃあ、何で俺は生きてるんだよ」
「ご尤もな質問だ。真っ当に考えるなら、君は今もゴミのように転がっていなければならない」
ディゲルは二本目のチョコバーに前歯を突き立て、ハムスターのように囓りきる。
「その『真っ当』をハイネさまは覆した。テコでも動かないはずの死に、お引き取り願ったのだ。何の代償も払わないなんて、虫がよすぎるとは思わないかね? 私なら向こうがどうぞと言っても、気が引けてしまうよ」
突如、ディゲルの口から深い溜息が漏れ、鳶色の目が下を見る。
半分閉じた瞼は、彼女が深い憂いを抱えていることを物語っていた。
「〈操骸術〉は――死者を蘇らせるあの秘術は、死人の〈魂〉にハイネさまの〈発言力〉を送り込む。他人の〈発言力〉には、激しい拒絶反応を起こす作用があってね。ハイネさまのそれを送り込まれた死人は、ガソリンに火を点けたように自身の〈発言力〉を燃え立たせる。この火力をうまい具合に操作して、死人の身体から離れかけている〈魂〉を、もう一度焼き付けるのさ」
少しの間、口を閉じ、ディゲルはチョコバーの包み紙を残り火に投げ入れる。
「〈発言力〉を他人に分け与えると言う行為は、電池を豆電球に繋ぐのと一緒でね。電球である死人の〈魂〉は輝きを取り戻すが、電池であるハイネさまは消耗する」
ディゲルは強い頭痛に襲われたように顔を歪め、額に手を当てる。
「何より〈操骸術〉は、判明していることのほうが少ない術だ。そもそも、〈詐術〉ですらない。必要なのは、死人に〈発言力〉を注ぐことだけ。嘘もそれを組む時間も求められない」
忍び泣くように口を覆い、ディゲルは一層口調を重々しくしていく。
「何が起こるかは、終わってみるまで判らん。下手をすれば、ハイネさまが君の身代わりになっていただろう。いや、精神だけを破壊され、生きた人形になっていたかも知れん」
「何で、何で、俺なんかのために……」
半平は土下座するように崩れ落ち、額を地面に擦り付ける。
自分を犠牲にすることを厭わなかったハイネを、沼津半平は心の中で罵倒してしまった。その事実が、申し訳ない以上に恥ずかしい。もう彼女はおろか、世間にも顔を向けていられない。




