①怪物
目の前に広がる空は、茜色に染まろうとしていた。
すかさず朱色の日差しが瞳を貫き、葛藤の末に開いた瞼を下げる。
どうやら半平は仰向けになり、地面に寝かされているらしい。
恐らく、稔小の校庭だろう。
夕日に目を焼かれる直前に、一瞬、サッカー用のゴールが見えた。
「よーやく開いたお目々なんだ。簡単に閉じて堪るかよ……」
半平は顔の前に手を翳し、少しずつ目を開く。
視界が広がるにつれて、どこかぼうっとしていた頭が晴れ渡っていく。
その瞬間、脳裏に浮かんだのは、光の中で対面した悪魔だった。
何でだ……?
何で、あいつは謝った……!?
半平は地面を掻き毟り、近くの水溜まりに這い寄る。
心配とは裏腹、水面に映った鏡像には、角も牙も生えていない。死人が甦ったからと言って、目玉が垂れたり、顔が土気色になっていることもなかった。
むしろ怪物と取っ組み合いを演じたはずの身体には、すり傷も切り傷も残っていない。
いや、それどころではない。
骨が剥き出しになっていた右腕までもが、無傷の状態に戻っている。
「まさか、時間を巻き戻したってのかよ……」
半平は首を振り、自らの仮説を否定する。
校舎の一階には、職員室と校庭を結ぶ大穴が空いている。
そもそも時間を戻したなら、空の色が橙に変わっているのはおかしい。
確か、ディゲルも言っていた。
〈詐術〉を使っても、時間を戻すことは出来ないと。
「単純に身体を治した……? あんな状態の俺を……?」
か細く呟き、半平は自身の身体を抱き締める。
確かに「ない」ものを実体化させる〈詐術〉なら、治癒魔法くらいあってもおかしくない。
だが納得出来るかどうかと、寒気を覚えずにいられるかは別の話だ。
黒こげの人間を元通りに戻すなど、尋常ではない。
平然と動いている自分には、驚きを通り越し、気持ち悪さを感じてしまう。
ともあれ、真実を知るには、ハイネに聞くしかない。
こちらの世界なら、暴力的な光に邪魔されることもないはずだ。
半平はまだ少し硬直した首を動かし、辺りを見回す。
やがて瓦礫の陰に目を向けると、蹲る白髪が視界に入った。
「はぁ……はぁ……」
彼女は痛々しく息を乱し、背中を上下させている。
憔悴しきった表情は、フルマラソンを走りきったランナーのようだ。
「ハイネ!」
半平は近くにあったゴールネットを引っ張り、地面に着いた尻を吊り上げる。
直後、耳に届いたのは、紐状の物体が千切れる音。
状況を理解出来ず、見開いた目に映ったのは、空中に投げ出される手だった。
身体が、ネットに体重を預けていた身体が後ろに倒れ、尻餅を着く。
途端、ぬかるんだ地面から泥が跳ね上がり、半平の顔面に吹き付けた。
「いてて……! 何だってんだよ……!」
いつの間にか拳になっていた手を開き、強打した腰をさする。
瞬間、しらたきのように丸まった紐が、身体の脇に落ちた。
いや、ただの紐ではない。
無惨に千切れたゴールネットだ。
「俺が、俺が引きちぎった……のか?」
まさか。
素手でネットを引きちぎるなど、「人間」の所行ではない。
そして沼津半平は、紛れもなく人間だ。
念のため、手を凝視してみても、鱗や獣毛は生えていない。
いや、もしかしたら、ゴールネットは元々脆くなっていたのかも知れない。
恐らく校舎を襲った火事のせいで、多少なり焼けていたのだろう。
現にゴールポストは、ススで黒ずんでいる。
ましてや稔小のゴールは、二〇年近く使われている代物だ。
とっくにガタが来ていても、おかしいことは何もない。
……俺のせいじゃない。俺のせいじゃない。
半平は自分自身に言い聞かせ、今度はレンガ製の花壇に手を着く。
それから全体重を花壇に掛け、一息に腰を押し上げた。
途端、手の平がレンガに沈み込み、ばりばり! と石の砕ける音が鳴り響く。同時にえんじ色の礫が吹き荒び、半平の全身を細かく叩いた。
勢いの付いた手の平は、分厚い土の層を貫き、花壇の底を打ち据える。
たちまち花壇一杯の土がメンコのように跳ね上がり、土煙が視界を覆う。
同時に鈍い地響きが発生し、三階建ての校舎を揺さ振った。
「冗談、だろ……?」
半平は引きつった笑みを漏らし、両手を見つめる。
爪の間に土を溜めた手には、薔薇の押し花がへばり付いていた。元々は花壇を飾っていた花だが、レンガを砕いた時に押し潰してしまったらしい。
夢や幻にしては鮮烈な緋色は、半平の願望とは真逆の答えを示していた。
これは、現実だ。
「なに、これ……?」
半笑いで問い掛け、半平はハイネに這い寄る。
答えを、答えを握らせてくれ……!
一心に願いながら、彼女の顔に手を伸ばしていく。
その矢先、灰の交じった風が吹き、ハイネの髪を揺らした。
ふと薔薇の香りが風に乗り、半平の鼻を擽る。
高貴な甘さは、瑞々しさは、半平の脳裏に先ほどの押し花を浮かび上がらせた。
二次元的にプレスされた花びらが、彼女の頭と重なる。
惨たらしく拉げた茎が、細い首と重なる。
触れたら壊す! 壊してしまう!
直感した半平は、彼女に触れる直前だった手を引っ込める。
続けてゆっくりと後ずさり、「壊れ物」の彼女と距離を取っていく。
途端、ぴき……ぴきと不可解な音が鳴り、半平の目を足下に招いた。
何と言うことだろう。
「怪物」に足を突き立てられた大地が、薄氷のように亀裂を走らせている。
「あ……ああ……」
半平は慌ててその場に立ち止まり、息を殺す。
ほんの僅かでも、地面に刺激を与えてはならない。
不用意に動こうものなら、大規模な地割れに呑み込まれてしまう。
「う……ああ……」
極度の緊張が身体を痺れさせ、こめかみに冷や汗が滲む。
米粒大の水滴とは言え、落とすわけにはいかない。
紙一重で均衡を保っている薄氷は、確実に砕け散る。
やめろ……! やめてくれ……! 引っ込んでくれ……!
念じれば念じるほど、破滅の一滴は頬を垂れていく。
程なく汗は顎の先端に達し、地面に滴り落ちた
刹那、亀裂に沿って大地が割れ、大人の顔ほどもある岩が乱れ飛ぶ。
瞬く間に半平の足下は崩れ落ち、底の見えない奈落に変わった。
「うあああああ!」
半平は腰を抜かし、お化け屋敷の子供のように絶叫する。地の底まで落ちていくはずだった尻を受け止めたのは、今し方崩落したばかりの地面だった。
改めて見回してみれば、大穴はおろか亀裂もない。
ただ水を吸った消石灰だけが、コース状に校庭を分割している。
全ては自分の力を恐れるあまり、脳の作り上げた幻覚だったらしい。




