③ひとごろし
大切な人を助けられなかった場合と、助けられるのに助けなかった場合。
一概には言えませんが、より後悔するのは後者のような気がします。
そしてハイネ・ローゼンクロイツは、助けられるのに助けなかった人です。
「俺、知ってた。聞いたんだ。机を枕にして、ぼ~っとしてた時。勝手に寝てるって思い込んで、友達と相談してた。芦尾を困らせてやろうって。財布を盗まれたって大騒ぎしたヤツが」
「きょう……げん?」
呆然と呟き、彼女は宙を見つめる。
「芦尾、文化祭の時とか体育祭の時とか、輪から外れて見てるタイプだった。そのせいで、クラスのリーダーみてぇな女に、財布盗まれたって言い出した女に、すっげぇ嫌われてた」
「その程度のことで、人を陥れたんですか……!?」
「あいつ、美人で成績もよくて、男とか先生の受けはよかった。俺、女の考えることとかよく判んねぇけど、そういうとこも面白くなかったんだと思う」
話している内に鼻水が溢れ出し、愚図っているように声が濁る。
他人事、他人事だ……!
事実だけを客観的に語れ……!
声に出さずに、何度も何度も同じ言葉を唱える。
せめてこの瞬間だけでも、自分を洗脳するために。
だが一度、鼻水に塗れてしまった声は、なかなか乾かない。
「俺のクラス、イジメとかもなくて、割と仲よくて、そこそこうまくいってた。俺、自分の立ち位置気に入ってて、友達だと思うヤツも一杯いて、女子にも結構話し掛けられてた。今の自分が崩れるのが嫌で、本当のこと言えなかった」
「けど、だけど、真実を話さなかったのは悪いことかも知れない。だけど、あなたが本当のことを言っていたら、芦尾さんが事故に遭わなかったって確証はない」
彼女は息継ぎもなおざりにし、怒鳴るように訴え掛ける。
挙げ句、言い終えると同時に激しく咳き込み始めた。
突然、大声を出したせいで、喉を痛めたのだろう。
「あいつが事故に遭ったのは、本当なら学校に来てるはずの時間だった」
許しがたい事実を口にした瞬間、人殺しの視界は真っ赤に染まる。
自分への憎悪が、抑えきれない怒りが、闇を紅蓮に塗ったのか。
それとも元々あった香苗の血が、頭一杯に広がったのか。
判断する余裕は、もうない。
「俺が本当のことを話してたら、あいつはそれまで通り学校に来てた。来てたんだ。居眠り運転のトラックになんか轢かれなかった。死ななかったんだ」
爆発音のような声が口を押し広げ、千切れた口角から血が滲み出す。
同時に何かが弾け飛び、頭の中一杯に堤防が決壊するような音が轟いた。きっと理性とか、自制心とか、今まで感情をせき止めていたものが崩れたのだろう。
そう、崩れた。
崩れてしまった。
もう無理だ。
完全に崩れ落ちるまで、平らにはならない。
「判るか? 俺は芦尾一人より他の三二人を選んだ。何が『うまくいってた』だ。あいつが顔を真っ赤にしても、誰一人信じなかったくせに。どいつもこいつも、次の日、空っぽになった芦尾の机を見て、『ああやっぱり』ってツラしてた」
声が速い。唇の動きに付いて行けない舌が、何度も何度も噛まれている。荒々しく乱れた呼吸は、単語の途中に句読点を挟んでいた。
もう、滅茶苦茶だ。
頭の悪いブルドッグだって、もう少し意味の伝わる唸り方をする。
「告別式の後、泥棒にバチが当たったって嗤ってるヤツもいた。最悪だ。俺はもっと最悪だ。みんなに取り入ることだけ考えて、芦尾が学校に来なくなった時も安心した。ああ、これで余計な波風が立たないで済むって」
人殺しは頭を抱え、足下に唾を吹き付ける。
「知ってた。俺、知ってた。俺だけが知ってたんだ。あいつには何の落ち度もないって」
頭の中の香苗は、まばたき一つせずに人殺しを見つめている。
臆病者が逃げ出さないように、じっと見張っているのだろう。
……大丈夫。
人殺しは香苗に約束し、断言する。
「俺が芦尾を殺したんだ」
多少、腹の虫が治まったのだろうか。
人でなしの告白を耳にした香苗は、心なし口元を緩ませる。真実はどうあれ、少しでも気持ちを軽くしたい人殺しには、死体が表情を変えたように見えた。
「一週間くらい、芦尾の顔だけがぐるぐる頭の中を回ってた。醤油に浸した刺身食っても、味しない。毎日毎日、頭から布団被って、ずっと考えてた。あいつら、芦尾をハメたあいつら、どうして泣けたんだろうって。俺、捕まらないのかなって。何で人殺したのに捕まらないのか、不思議で仕方なかった」
急速に心音が萎み、頭の温度が下がっていく。
たぶん、感情が溢れるだけ溢れ出し、枯れ果ててしまったのだろう。
「前に言ったよな? 困ってる人に声掛けてるのは、俺が嫌な思いをしないためだって。本当は面倒ごとなんてごめんだった。他人に構うより、俺の将来を固めたかった。羨ましかった。普通に高校行ってるあいつもあいつも。でも、もう二度とあんな思いしたくなかった」
一瞬、悪寒が走り、声が掠れる。
「今度誰かにいなくなられたら、もう自分を騙せない。生きてちゃいけないって正論に負ける。怖かった。生きてること、無罪、やめたくなるくらい辛いのに、死ぬのは怖かった」
人殺しは目を閉じ、再び膝の間に頭を落とす。
胸に抱えていた想いは、全て出し尽くした。
これ以上、口に出せる言葉はない。
「……行ってくれ」
人殺しは彼女に促し、無感情に自分を罵る。
「偽善、偽善、偽善、全部、偽善だ。偽善で塗り固められてる。お前に微笑んでもらう資格なんて、俺にはない」
醜い本性を知った彼女は、人殺しに唾を吐く――。
伝染病が蔓延しているかのように、一刻も早くこの場を離れようとする――。
一〇〇㌫的中するはずだった予測は、呆気なく外れた。
「私もです」
意味不明の一言を発し、彼女は人殺しの背後に腰を下ろした。
人殺しの背中に彼女の重みが乗り、肩胛骨が肩胛骨をノックする。じんわりと伝わって来る彼女の体温が、何とも言えずもどかしい。
「私も前に言いましたよね? 私は私のために、みんなのお手伝いをしてるって」
「……あれは俺を慰めるための方便だろ?」
「いいえ。私、そこまで優しくねぇです。迷子さんとか泣いてるとイラッとしますもん。ちゃんと手ぇ握っててあげなよお、って」
少しムッとした口調で言い、彼女は体育座りになる。
それから左手を顔の前に翳し、まじまじと眺め始めた。
「私にはこの力があった」
「この力……?」
「あなたみたいに二度とお話出来なかったはずの人と、言葉を交わす術です」
唐突に彼女の肩が戦慄き、奥歯の軋む音が耳に届く。
「でも、助けなかった」
彼女の声を始めて聞いた時、春の日差しのようだと思った。
世界を晴れやかに照らしてくれるが、夏のように暑苦しくはない――。
全身に心地よい温もりを広げ、自然とうたた寝を誘う――。
自画自賛するようで気持ち悪いが、よく出来た比喩だと思う。
国語が万年「3」だったことを考慮すれば、充分に及第点だ。
甘く澄んでいるだけなら、男の受けを狙い、声色を変える姉と一緒だ。
安らかな気持ちになるどころか、むしろ憐れみと殺意が沸く。
ところが、この日差しと来たら、三〇円のベビースターラーメンで甲高く跳び上がる。
恵まれない胸に話題を向ければ、世間体もへったくれもなく地の底を這う。
包丁の扱いが下手な生徒のことは、肝っ玉母さんのように叱った。
女子とは思えない飾り気のなさは、彼女の意志とは裏腹に笑みを誘う。
失笑、苦笑、微笑と形は様々だが、何度となく人殺しの胸を温めてくれた。
その日差しが今、冷たく震えている。
普段のように彼女の声を追っても、胸が温まることはない。
むしろ、木枯らしに吹かれたように心が冷えていく。




