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②芦尾香苗

「あなたには五〇年、六〇年の時間が残されていた……! 夢を叶えて、誰かを愛して、何度だって笑えた……!」

 やりきれなさそうにまくし立て、彼女は人殺しに顔を寄せていく。

「何があなたに未来を捨てさせたんです……!? 日々を苦痛に変えたのは何だったんです……!?」


「引きこもってる理由を訊いて、うまいことなだめるつもりなんだ?」

「はい。どんな手段を取っても、ここから出てもらいます」

 策略を認める声に、後ろ暗さは感じられない。

 むしろ堂々とした表情は、一騎討ちでも申し込むかのようだ。


「あのさぁ、こーゆー状況なわけじゃん? 嘘つくくらいの優しさ見せてもよくね? 俺がもう少しピュアだったら、今の発言で耳塞いじゃってんぜ」

 どこまでもバカ正直な彼女がおかしくって、言葉の端々に笑みが交じる。

 一緒に胸のつかえも出て行ったのか、少しだけ気分が軽くなった。


 冷静に考えてみれば、真実を語れない理由はどこにもない。


 人殺しがこの闇から脱出しようとしたところで、出口の所在は見当も付かない。

 砕け散るも何も、どのみち近い将来、風化する魂だ。

 危惧した通りになったとしても、執行猶予が短くなるだけ。

 むしろ粉々になる激痛を味わう分、人殺しには相応ふさわしい末路だ。


「そうだな。最期の最期に、俺がどーゆー人間か知ってもらうのも悪くはないか」

 人殺しは顔を上げ、遠くを眺める。

 目の前に広がる景色は、手元から水平線まで真っ黒に染まっている。

 そう、どこを見たってわりえはしない。 

 でも、それでも、近くを見ていたい気分ではなかった。


「中学三年の二学期、一二月三日、俺のクラスで事件が起きた。体育の授業中に、女子の財布がなくなったんだ」


 他人事ひとごとだ……! 他人事ひとごとなんだ……!

 繰り返し自分に言い聞かせ、出来るだけ淡々と語る。

 少しでも感情が入ってしまったら、きっと最後まで伝えることが出来ない。


「普通、学校に財布なんか持って来ねーんだよ。中学校には学食とかねーし。買い食いも禁止だし。けど、そいつんち、親が過保護で、何かあった時のために金持たせてたんだって。しかも三万近く入ってたらしくて、結構な騒ぎになった」


「それであなたが疑われたんですか?」

 だったら、楽だったろうな……。

 反射的にぎった感想を呑み込み、人殺しは首を横に振る。


「俺、男だぜ? 女子の更衣室には入れない。授業中も他のヤツと一緒で、アリバイも完璧だった」

 人殺しはやけにねばつく唾を呑み、中学校の教室を思い返す。

 芦尾香苗は席に着き、お気に入りの文庫本と向き合っていた。


 香苗の名前を聞いた時、頭に浮かぶ光景は二つしかない。

 一つは棺桶の中に横たわり、菊に埋もれた青白い顔。

 そしてもう一つは、ピンと背筋を伸ばし、読書する姿。


 中学の三年間、人殺しと香苗は一緒のクラスだった。

 でも友達とはしゃいでいるところなんて、一度も見なかった気がする。


 腰まで伸ばした黒髪は、女流歌人のように凜とした空気を感じさせる。

 身長は割と高くて、背の順に並ぶと、高確率で最後尾に来た。


 濃紺のセーラー服も、チェックのブックカバーも、あの日から少しもいろせていない。眺めれば眺めるだけ、あの教室に駆け込み、香苗の席を確かめたくなる。


 今、見ているものは、本当に記憶の中の光景に過ぎないのだろうか。

 本当はまだ、どこかに残っているのではないか。


「着替えの時、最後まで更衣室に残ってたのは、芦尾香苗だった。芦尾、ああ見えて気が強かったから、カバンの中身ぶちまけて、身体検査もしろって言った。けど、そんなことしたら、教育委員会とかPTAとか黙ってない。だから結局、担任が注意しただけで終わりになった。『財布とかは持って来るな』って」


「芦尾さんのカバンにお財布はあったんですか?」

「なかった。悪いから、あんまジロジロ見なかったけど」

「だったら……!」

 自分が疑われたように息巻き、彼女は前のめりになる。


「どこかに隠してないって証拠もなかった」

 よくもまあ、そんなことを言えたものだ……!

 胸の中に怒声が響き、全身の毛穴が熱を帯びていく。あの雨の日、水溜まりと一緒に吸い上げた香苗の血が、怒りに沸いているのだろう。


「次の日から芦尾は学校に来なくなった」

 人殺しは早口で告げ、急いで口を閉じる。

 もう少し唇を結ぶのが遅かったら、絶叫を轟かせていたかも知れない。


 どうして、時間は未来にしか流れないのだろう。

 どうして、過去を変えることは出来ないのだろう。

 もどかしくて腹立たしくて、気が狂ってしまいそうだ。


 ともかく一度、息を吸い、乱れた呼吸を整える。

 冷えた闇が身体を冷ますと、今にも爆発しそうだった心音が落ち着いていく。

 これなら何とか、続きを語ることが出来るだろう。


「三日後、芦尾が事故に遭ったって連絡が回ってきた」

 脳内から教室が消え、代わりに曇った街並みが広がる。

 瞬間、頭の中に鈍い音が響き渡り、香苗の手足が関節とは逆に曲がった。


 たちまち香苗は椅子から滑り落ち、焦点を失った瞳を見開く。

 舗道に広がった黒髪からは、じわじわと赤黒い血が染み出していった。


 人殺しは事故の瞬間を目撃したわけではない。

 血の海に浮かぶ香苗は、あくまで妄想の産物だ。

 後々見た現場の状況に、漫画やドラマの演出を合成したに過ぎない。


 なのに惨状を眺めていると、その瞬間の香苗に触れたように伝わって来る。

 体温を失い、青白くなった腕の硬さが。

 一二月の寒風にさらされ、冷たくなった血の感触が。


「居眠り運転のトラックが横断歩道に突っ込んできて、即死だった」

「あ……」

 濁った音を最後に、彼女は言葉を失う。

 途端に沈黙が辺りを包み込み、耳鳴りの蔓延はびこる時間が始まる。


 彼女は唇をむずむずと動かしているが、なかなか口を開けない。

 今も必死に、慰めの言葉を吟味しているのだろうか。

 あるいは本音を押し殺し、建前を口にするのに苦慮しているのかも知れない。


「『気の毒』なんて月並みな言葉は使うべきじゃありません。でも、芦尾さんが亡くなったのは不幸な事故です。あなたのせいじゃない」

「俺のせいじゃない……」

 人殺しはうめくように絞り出し、たまらず顔を揉む。


 高校に通学中の元クラスメイト。

 大荷物を抱えた年寄り。

 これ見よがしに泣きじゃくる迷子。


 鬱陶しい光景が視界に入る度に、人殺しは自分に言い聞かせた。

 香苗が死んだのは、お前のせいじゃない。


 事実、香苗が学校に通えなくなる原因を作ったのは、疑いを掛けたクラスメイトたちだ。

 香苗をねたのも、人殺しではない。

 例え真実を知っても、世間は人殺しは責めないだろう。


 けれど、人殺しには思えない。

 責任がないと訴える自分が、見苦しく言い逃れしているようにしか思えない。


 躍起やっきになって無罪を訴えるほど、自分自身が人でなしに思えてくる。その内に生きている資格があるのかさえ判らなくなって、眠りは遠く、夜は長くなっていった。

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