①闇
地平線。
空。
大地。
見渡す限り、ツヤのない黒。
光沢のない墨色。
闇だ。
浮いている……?
そう、浮いている。
緩やかに磨り減っていく輪郭を、水煙のように棚引かせながら。
でも、沈んでいる。
そう、沈んでもいる。
全身に水圧のような重さが掛かり、闇の底へ身体を招く。
もしかしたら、上下左右が四肢を綱引きしているのかも知れない。
いや、そもそも肉体はあるのだろうか?
ひょっとしたら、身体から分離した意識とか、魂とか呼ばれるものだけが彷徨っているのではないか。もしくは闇の一部が偶然自我を持ち、生きていると勘違いしているのかも知れない。
真偽を確かめるため、試しに息を吸ってみる。
たちまち喉に闇が雪崩れ込み、肺にタールのような感覚が溜まる。
同時に鋭い冷たさが広がり、内側から身体を刺した。
今まで過ごしていた場所では、呼吸になど気を取られたこともなかった。しかしこの世界では、苦痛を味わわなければ、息を吸うこともままならないらしい。
でも、太陽の昇る気配はない。
押し付けがましく訪れる明日に、いちいち罪悪感を感じなくてもいい。
分不相応な未来は存在せず、消滅だけが約束されている。
なら、ここは楽園だ。
重く粘っこい闇を啜る? 刺すような冷たさ? それが何だ。
太陽は地の果てまでも追い掛け回し、人殺しに無罪と言う責め苦を与える。
痛みもなく身体を磨り減らしていく闇より、遥かに性根が悪い。
この闇がようやく執行された刑だとするなら、拒む理由はどこにもない。
むしろ、軽すぎるほどだ。
あの人は娘の棺桶にしがみつき、声が出なくなるまで泣き叫んでいた。
本当なら生きたまま八つ裂きにされても、文句は言えない。
煮るなり焼くなり、好きにしてくれ……。
全身の力を抜き、恭順の意を示す。
途端に手足が浮き上がり、水草のように漂い始めた。
狙い通り、闇に気持ちが伝わったのだろうか。
肉体の磨り減るスピードが上がり、意識がぼやけていく。
この調子ならそう遠くない内に、完全な無になることが出来るだろう。
「見付けた……」
闇を漂い始めて以来、始めて耳にする音。
名前は思い出せないが、聞き覚えがある。
彼女の声だ。
「やっぱり、残ってた……」
彼女は深く息を吸い、その度に長く息を吐く。
忙しく上下する肩と言い、かなり長い距離を走って来たようだ。
汗に濡れた顔は苦しげで、だらりと舌を垂らしている。
反面、時折聞こえる嗚咽には、なぜか笑みが混じっていた。後から後から溢れ出る涙は、彼女の中に抑えきれない感動があることを物語っている。
……見られたくない。
彼女に背中を向け、その場に腰を下ろす。
途端に頭が下がり、膝の間に沈んだ。
星のように眩い彼女は、きっともう、闇が隠してくれていた姿を、人殺しの本性を照らし出している。
この場を彷徨うのが剥き出しの魂なら、彼女の目に映るのは人ではない。
屍肉を喰らったように血塗れで、腐臭を漂わせる鬼だ。
「帰りましょう?」
彼女は優しく促し、人殺しの肩に手を乗せる。
だが人殺しは瞬時に肩を引き、彼女の手を振り払った。
汚したくない。
真っ白い手を持つ彼女が、人殺しになど触れては駄目だ。
粉雪のような肌が、どす黒く染まってしまう。
「帰りましょう」
彼女は先ほどより大きな声で呼び掛け、懲りずに人殺しの肩を掴む。
どうして、こちらの配慮を判ってくれないのだろう。
相変わらず、変なところで空気が読めない少女だ。
「……ほっといてくれ」
もう使わない予定だった五〇音を思い返し、言葉を絞り出す。
長々と闇を漂う内に強張ってしまった喉からは、掠れた声しか出なかった。
「こんなとこにいたらダメです、絶対」
「こんなとこがお似合い。あっちのがずっといるべき場所じゃない」
戯けた口調で返し、精一杯誤魔化し笑いを浮かべる。
「あなたは……」
少し苛立たしそうに呟き、彼女は前髪を揉む。
「こんなこと聞いちゃいけないの、判ってます」
厳めしく前置きし、彼女は唾を呑む。
間があった。
きっと、口に出さなければ先に進めない一言に、二の足を踏んでいた時間。
同時に、猶予。
臆病な人殺しがショック死しないように、覚悟を決める時間を設けてくれたのだろう。
配慮してくれたのは嬉しいが、逆効果だ。
いつ来る……!? いつ来る……!?
焦らされれば焦らされるだけ、心臓の音は騒がしくなっていく。いきなり舌を噛まないように、犬歯の動きには注意を払っておかなければならない。
「何があったんですか……?」
来た……!
脳裏に絶叫が轟き、苛烈な――そう、心臓に杭を打たれたような衝撃が全身を駆け巡る。反射的に背筋が戦慄き、触れられたくない場所に触れられる痛みが顔を歪ませた。
なぜ真実を語らなかった!?
お前が彼女を殺したんだ!
激しい後悔が、怒りが胸を締め付け、顔中を震わせる。事前に歯を食いしばっておかなかったら、激情に任せて舌を噛み切っていたかも知れない。
……話せない。
真実を知ったなら、彼女は人殺しを軽蔑する。
その瞬間、自分に甘い人殺しは強弁し始めるに違いない。
大好きな彼女に、自分から嫌われたのだ。
もう充分、罰は受けただろう?
償った気になった人殺しは、この闇から脱出を図るかも知れない。
いや、それ以前に、訊かれただけで心臓に杭を打たれる話題だ。
言葉にするために自分の行いを顧みたら、きっと魂が砕け散ってしまう。
「別に。俺は俺が嫌いなだけ。押し付けがましいお節介も、俺が困るトコ見て嗤うためだよ」
無関心で大ざっぱに塗り、塗り残しから屈折した自分への愛を覗かせる――。
力の限り演じたつもりだが、思春期特有の自己嫌悪とやらに見えただろうか?
「嘘です」
半ば怒鳴るように言い放ち、彼女は人殺しの発言を切り捨てる。
何しろ海千山千の相手と渡り合い、殺すか殺されるかの修羅場を潜ってきた彼女だ。B級青春映画の真似事くらい、見破れないはずがない。
「……ホントなんだけどなあ、俺が嫌いなのは。ああ、嗤ってたのもか」
「でも、理由がないって言うのは嘘です。あなたには食卓を囲んでくれる家族がいた。『ありがとう』って言ってくれる、たくさんの人たちがいた。理由もなくあなたを嫌うには、自分を肯定する要素を持ちすぎてる」
彼女は胸に手を当て、再確認するように頷く。
「人は肯定してくれる誰かがいる限り、自分を拒絶しない。ううん、拒絶しきれない。自分を否定すれば、自分を愛してくれた人たちまでも否定することになってしまうから」
「……体験談?」
厭らしく追求し、人殺しは彼女の反応を窺う。
わざと意地悪な質問をしてしまうのは、的を射すぎた意見が鼻に付いたからだろうか。いや、答えにくい質問が、彼女の口を塞ぐことを期待したのかも知れない。
「あくまでも、私の主観的見解です」
珍しく答えをぼかし、彼女は腿に爪を立てる。
潔癖な彼女は、質問から逃げた自分が許せなかったのかも知れない。




