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④接吻

 第11章はこれで終わりです。

 500年前、ハイネの身に何があったのか?

 興味がある方は、『亡霊葬稿シュネヴィ』を読んでみて下さい。

 全ては、ハイネの妄想に過ぎないのかも知れない。

 若者が死の瞬間に笑ったからと言って、喜びを感じていたとは限らない。

 半平は単純に、ハイネを悲しませたくなかっただけかも知れない。


 だが彼は日々、自分を中傷するような言動を繰り返していた。

 そして同時に、自分が満たされることを極端に嫌っていた。


 現に酸辣湯サンラータンを作った夜、半平は高校を中退した理由をこう語った。

 自分なんかが普通の生活を送っていることに、違和感があった――。


 棘を背負った人間は、自分が幸せになることを許せない。

 それどころか、ただ心臓を鳴らしているだけで、耐えがたい後ろめたさを抱く。


 高校に通い、友達と談笑し、将来を夢見る――。

 彼と同年代の子供たちにとっては、享受してしかるべき権利だ。


 だからこそ、棘の刺さった半平は、学校にいることが出来なかった。

 自分が普通の人と同じ待遇にあずかるなど、厚顔無恥にもほどがあるから。


 挙げ句、生真面目で正義感の強い彼は、本当に高校を中退してしまった。もしかしたら、常識的な毎日を送る自分に、殺人犯が自由を謳歌しているような許しがたさを感じていたのかも知れない。


 だとするなら、半平は自分の死を、重罪人が当然の罰を受けたと考えているだろう。おめおめ息を吹き返したところで、祝福することはあり得ない。


 ましてや再び目を開いた時、半平はもう彼の知る沼津半平ではない。

 生前と同じ苦しみを味わうどころか、新たな問題に直面する羽目になる。


 永遠に苦悩するのが目に見えている以上、ハイネには到底答えられない。

 何を根拠に、生きることが幸せだと言うのか?

 何を根拠に、死が救いではないと言い切れるのか?


 考えれば考えるだけ袋小路に陥る思考が、顔中にシワを浮かせていく。やがて知恵熱を起こしたように顔が火照ほてりだし、こめかみから不快な汗がしたたった。


 そうやって結論を出せずにいる間にも、人々の悲鳴はボリュームを上げていく。

 爆炎は容赦なく膨れ上がり、街を焼いていく。

 何より、半平が助かる確率は目減りしていく。


 落ち着け……!

 ハイネは自分に言い聞かせ、長く息を吐いた。


 違う。

 トロッコ問題と現実は違う。


 前者の場合、選択の余地はトロッコの針路にしかない。

 だがハイネの生きる現実には、無限にれる手段がある。


 大声を出し、手を振れば、五人の内一人くらいは異変に気付く。トロッコの針路を変えるなら、事前に移動先で作業中の一人を避難させればいい。バカ正直に五人か一人か思い悩むのは、発想力も応用力もない阿呆のすることだ。


 意地悪な言い方をしてしまえば、トロッコ問題など気楽だ。

 どちらの選択肢をっても、確実に誰かを救える。


 勿論もちろん、現実の場合はそうはいかない。

 結果がどうなるかは、完全に選択者の努力次第。

 六人全員を救える希望がある反面、誰一人助けられないかも知れない。


 半平を選んだからと言って、残りの人々を見捨てなければならない道理はない。

 立てなくなる? なら、這えばいい。

 拳を握れない? なら、食い付けばいい。

 実際に行動するハイネが諦めない限り、結果はいくらでもよくしていける。


「……私は誰も見捨てない、絶対に」

 改めて誓い、ハイネは目を閉じた。


 想像力を駆使し、眉間にちょうだい質量しつりょうブラックホールを思い描く。

 途端、思い思いの方向に散らばっていた視覚が、聴覚が、嗅覚が、味覚が、触覚が吸い出され、ハイネの眉間に飛び込む。数多あまたの星を引き寄せ、銀河を形成するちょう重力じゅうりょくが、五感を一点に掻き集めたのだ。


 まぶたの裏に滲んでいた炎が、底知れない暗闇に取って代わられていく。

 同時にサイレンの音が聞こえなくなり、半平のくすぶる臭いも感じなくなった。


 確かに、棘を背負った半平にとって、生きることは苦痛でしかない。

 自分自身、棘を抱えたまま生きることを選択したハイネも、未だに確信を持てずにいる。


 果たして、五〇〇年前に選んだ道は正しかったのだろうか。


 なまじ生に執着せず、命を絶ってしまえば、死が永遠の安らぎを与えてくれた。ただ生きているだけで、罪悪感にさいなまれることもなかったはずだ。


 だが、それでも、それでもだ。


 あの日、命に執着しなければ、実体を持つ手を失っていた。

 未来を失おうとしている誰かの手を、掴むことが出来なくなっていた。


 ハイネの胸には、幾つもの笑顔が刻み込まれている。

 悠久の歳月を経て尚、彼等の表情は決していろせない。彼等と出逢えたのも、あの日、踏ん張り、生きることにしがみついたからではないか。


 人々の笑顔は、棘に苦しめられているハイネから笑みを引き出してくれた。

 罪悪感によってかじかむ胸に、お味噌汁のような温もりを広げてくれた。

 半平の死に涙が溢れるのも、長い時間を共有し、笑みや温もりを与えてもらったからだ。


 永遠の命。


 家族や友人、愛する人が必ず先に逝く。


 自分は絶対に死ねない。


詐術師さじゅつし〉はそれを「地獄」と呼ぶ。

 わけあって不老のハイネも、地獄に身を置く覚悟でそれを選んだ。


 だが今なら、全ての〈詐術師さじゅつし〉に言い返すことが出来る。

 実際に果てしない歳月を生きてきて、体感したから。


 永遠は地獄なんかじゃない。

 長生きしたおかげで、七〇年、八〇年の人生なら関われなかった人たちと巡り逢えた。多くの人と巡り逢ったおかげで、沢山の愛おしさを感じられた。


 痛みも苦しみもない死は、棘にさいなまれる生より優しい。

 ハイネは否定しない。出来ない。


 でも、ひたすら無が続くだけの死には、出逢いや愛おしさもない。

 なら、死が生より魅力的だと考えるのは誤りだ。


 少なくとも、等価値。


 目の前の痛みを越えた先には、笑顔の溢れる未来が広がっているかも知れない。棘にえてでも、命にしがみつく意味はある。


 そう、所詮はハイネのひとがりに過ぎない。


 歩んできた人生は、人それぞれだ。

 経験してきたことが違う以上、価値観も各々異なる。

 自分が「こう」だから相手も「こう」だと決め付けるのは、ただの傲慢だ。

 両親を失った人が一〇〇人いれば、そこには一〇〇通りの悲しみがある。


 半平は別れる悲しみより、最初から出逢わないことを選択するかも知れない。

 数多あまたの感情で騒がしい生より、閑静な死に惹かれるかも知れない。


 教科書にも哲学者にも教祖にもこの世の誰にも、半平の見解を否定する資格はない。

 実際に生きていくのは、半平なのだ。


 お仕着しきせの命が彼を苦しませることになったところで、誰にも肩代わりすることは出来ない。

 世間のお眼鏡にかなっていたとしても、半平の納得出来ない人生では意味がない。

 そもそも再び目を開いたからと言って、笑みや愛おしさと出逢える保証はどこにもない。


 思考を巡らせるほど、ハイネは自分の見解を支持しきれなくなっていく。

 ちっぽけな良心は、ハイネを戒めている。

 他人の気持ちを自分の物差しではかるな、と。


 穴だらけの詭弁きべんでも、正解だと言い張れなくはない。

 強引に自分を言い含め、実行に移すことは出来る。

 だが自分にいた嘘はまた新たな棘となり、ハイネを責め立てるだろう。

 だからと言って、心の声に従えば、半平は死ぬ。


 迷子やお年寄り。

 三人組の小学生。

 一緒に食卓を囲む家族。

 半平を見つめる瞳からは、お日さまのような温かさが滲み出ていた。


 悲しいしらせは、確実に皆の顔を曇らせる。

 気持ちよく晴れていた瞳に、やまない涙を呼ぶ。

 その光景を思えば、小利口な理屈に正当性があろうがなかろうが知ったことではない。


 ……見誤るな。

 自分に言い聞かせ、ハイネは表情を引き締める。


 筋を通すために、命を救うのではない。

 命を救うために、筋を通すのだ。


 みすみす彼を死なせる正論に、何の価値がある? ハイネ・ローゼンクロイツが支離滅裂と罵られるのに、どれほどの痛手がある? 半平の心臓が再び動き出し、皆が涙を流さずに済むなら、全世界からの糾弾だって苦にはならない。


 ハイネは半平の後頭部に手を当て、自分の顔に引き寄せた。

 力を失い、座らなくなった首は、遠慮なく全体重を掛けてくる。

 米袋のようにずしりとのし掛かる重みは、何度味わってもしっくり来ない。

 そしてまた、遭遇する度につくづく思う。もう二度と味わいたくない、と。


 すぅ……。


 ハイネは邪魔な髪を耳の後ろに掛け、深く息を吸った。

 雑念に乱された五感を束ね直し、針のように研ぎ澄ましていく。

 同時にゆっくりと顔を下げ、半平の顔に寄せていった。


 ハイネの唇と半平の唇。


 二つの唇が、重なる。


 お願い、目を開けて……!

 ハイネは半平の髪を握り締め、彼の顔をむさぼるように唇を押し当てた。


 ぴちゃ……ぴちゃ……。


 お互いの唾が水音を立て、粗い粒子がハイネの頬を擦る。

 半平の顔中にこびり付いた泥に、砂利が混じっているのだろう。


 半平の唇は煮崩れしたような食感で、死によって硬直した頬は筋張すじばっている。焦げた髪は臭く、泥と血の混じったよだれはひたすら苦かった。

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