③棘
「けど、これで……」
半平は安堵したように目を細め、泥水ごと鼻水を啜る。
「お願い、お願いだから、もう喋らないで……!」
ハイネは懇願し、力任せに首を振る。
余計な音が鳴れば、彼の心音が聞こえなくなる。
心音が聞こえなくなれば、最も恐ろしい可能性が脳裏を過ぎる。
このまま永遠に聞こえなくなるのではないか、と。
「もうこれ以上、私に大切な人を見送らせないでよ……!」
ハイネは半平の顔を自分の胸に押し当て、口を開けないようにする。
だが半平は最後の力を振り絞り、ハイネの肩を軽く押す。
途端、ハイネの胴体は後ろに傾き、彼の顔との間に僅かな空間を作った。
そう、ぎりぎり唇を動かせるだけの空間を。
「これで、ようやく……」
乾燥した風が吹き、彼が伝えようとしていた言葉を掻き消す。
その瞬間、彼は微睡むように瞳を閉じた。
一気に力の抜けたその手が、ハイネの懐からこぼれ落ちていく。
「……っ!」
ハイネは一心不乱に手を走らせ、彼の手を掬おうとする。
だが泥に塗れたそれは、するりと指で作った網をすり抜けた。
半平の手が水溜まりに落ち、低く鈍く波紋が這い出す。
小さな水音が消えると、耳に届くのはハイネ・ローゼンクロイツの鼓動だけになった。
半平の胸に耳を押し当てても、もう何も聞こえない。
「半平さん、半平さん……!」
名前を呼んだ途端、身体が突っ伏し、半平に縋り付く。
亡骸を揺する度、彼の胸が顔面と擦れ合い、鼻を真っ赤に染める。
鼻水は止めどなく流れる涙と合流し、唇をふやけさせていった。
「半平さん、半平さん……!」
凍えたように戦慄く身体は、すっかり呼吸のやり方を忘れていた。
愚かにも吸いながら吐こうとしては、いたずらに咳を放っている。
これでは、死に抗う術のない人間だ。
そう、死に抗う術がないかのようだ。
絶えることのない涙に、張り裂けそうな胸に、嘘はない。
一方で、ハイネは降伏か抵抗か選択を迫られていた。
決断を控え、汗ばむ手には、目には見えないレバーが握られている。
他でもない、未来を決めるレバーが。
まだ半平の未来は決まっていない。
無慈悲な現実を変える手立てはある。
だが、それを実行すれば、ハイネは立っていられなくなる。確実に。
現状、近くに卒塔婆の使い手はいない。
ハイネが行動不能に陥った時点で、〈YU〉を止める手段はなくなる。
野放しになった怪物は、多くの命を奪うことだろう。
だが、半平の未来を変えられるのもただ独り。独りなのだ。
顔馴染みの半平を優先し、我々を見限るのか?
懐の半平をチラ見すると、街の悲鳴がハイネを罵る。
かと言って、街を一瞥しようものなら、冷たい亡骸が訴え掛けてくる。
人命を数で量るのか?
半平一人を助けるより、街の数千人を救う――。
「最高」でなくとも、「最善」の選択なのは間違いない。
だが人間を疑い、真実を隠蔽するハイネを、半平は受け入れてくれた。受け入れてくれたのだ。
天秤の反対側に街中の人々が乗っているからと言って、彼に犠牲を強いていいのか? 強いることが出来るのか? それが正義か?
実際、二択を迫られて以来、ハイネは半平ばかり眺めている。
意識的に見ようとしない限り、街には目が行かない。
半平が息を引き取ってから、ハイネの心はずっと泣き喚いている。
他の誰がどうなってもいい。半平さんを助けたい。
言い逃れは出来ない。
ハイネは街の人々を見捨て、彼を救うことを望んでいる。
だが同時に、迷っている。
彼は生き返ることを望んでいるのだろうか?
耐えがたい苦痛に襲われながら、短い生涯を終えようとしている――。
その瞬間を切り取ったはずの顔には、えくぼが浮いている。
この五〇〇年間、ハイネは沢山の死と触れ合ってきた。
今際の際に浮かべる表情は、千差万別だ。
人生が様々な形をしているように、一つとして同じ顔はない。
ただ、グループ分けする傲慢さを承知で言うなら、前触れもなく死を迎えることになった人間が、安らかな顔をすることは少ない。
特に若者は恐怖と絶望に顔を歪め、必死に叫き散らす。
未来が欲しい、誰か、誰か助けてくれ、と。
死を前に笑みを浮かべた若者は、ほんの一握り。
彼等の〈魂〉に触れた時、ハイネは深々と刺さった「棘」を見た。
それは固く絡ませた小指と小指だった。
そしてまた、影を見掛けただけで温めてくれる人だった。
何より、彼等自身の所行だった。
一括りに「棘」と言っても、各々の様相は大きく異なる。
槍のように巨大で、容易に激痛を想像させるもの。
目を凝らさなければ見えないのに、確かに鈍く疼いているもの。
憎悪、憤怒、絶望、悲哀、憐憫――。
個々に異なる複数の感情が、各々の比率で混じり合い、独特の形を作り上げている。
たった一つ共通していたのは、棘の生まれた理由が過去にあると言うこと。
今、足掻くことによって変えられるのは、未来だけ。
誰もが本当に変えたい過去は、どんな権力者にも大富豪にも改竄出来ない。
例え〈詐術〉を使っても、時間を戻すことは不可能だ。
原因が過去にある以上、棘を消すことは絶対に出来ない。
過ぎ去った時間を見つめ直し、自分なりの決着を着けることは出来る。
だが気持ちに区切りを着けたからと言って、自分の行いがなかったことになるわけではない。失った人は二度と戻って来ない。
棘がなくなったように感じても、実際には見ないようにしているだけだ。
あるいは痛みが弱まったことで、消えたように錯覚しているのだろう。
死の瞬間、彼等に笑みを浮かべさせたのは、満足でも不甲斐なかった自分への嘲りでもない。本心からの安堵、そして純粋な喜びだ。
いくら棘に苦しむ彼等でも、死に恐怖を抱かなかったはずがない。
現に半平も、息を引き取る直前に「怖い」とこぼしていた。
それでも笑みを浮かべられたのは、棘から解放されることに歓喜を感じたから。
確かに、彼等は死を恐れていた。だがそれ以上に、いや恐怖の対象に喜びを感じてしまうほどに、棘に苛まれる五〇年、六〇年を畏れていたのだ。
ハイネの胸にも棘は刺さっている。
数多の星が見張っていた夜から、五〇〇年間ずっと。
痛みから逃れたい一心で、命を絶とうとしたこともある。
確かに、ハイネは半平の未来を変える力を持っている。
だが半平の胸に棘が刺さっているとするなら、彼の運命に介入することは救いではない。むしろ安らかな眠りを妨げ、苦痛を味わわせるだけの「拷問」だ。




