⑥ホワイトアウト
「頼むから、もう起き上がんなよ……」
半平はそろ~りと足を伸ばし、怪物をつんつんしてみる。
動かない。
念のため、もう一度つんつんしてみる。
動かない。
「やれば出来る子じゃない、俺も」
萎れた声で自画自賛し、半平は床に座り込む。
疲弊した身体は自然と後ろに傾き、手近な机に寄り掛かった。
正直、もう一歩も動きたくない。
遅ればせながら火災報知器が鳴りだし、周囲の炎が細かく震える。
立て続けにスプリンクラーが作動し、ドヤ顔の半平に冷や水を浴びせ掛けた。
「……まぁたスプリンクラー動かしちったけど」
やたら傷口に水がしみるのは、自分の進歩のなさを痛感してしまったからだろう。ザ・腐ったミカンな問題児ぶりは、理科室の天井を焦がした頃から何も変わっていない。
人工的な降雨に晒された炎は、あっと言う間に勢いを失っていく。
数分も経たない内に火は消え、後には細々と棚引く黒煙だけが残った。
怪物は黒い水溜まりに浸かり、サンマの脂が爆ぜるような音を立てている。
粘液で覆っていた皮膚はすっかり炭化し、手足はハイハイするように曲がっていた。恐らく高熱の火炎に焼かれた筋肉が、急速に収縮したのだろう。焼死体にはありがちな体勢だ。
「……これ、どこに通報すりゃいーんだろ」
冷たい水が興奮を冷ますと、現実的な問題が気になってくる。
火事として見るなら消防、猛獣の襲撃事件として見るなら警察の管轄だろう。
しかし怪物の死体が転がっているところに呼べば、〈詐術師〉の存在を教えることになりかねない。自分から話すわけではないが、結果的に約束を破ることになってしまう。
ここはやはり、ハイネに連絡を入れるのがベストだろう。
とは言え、電話には出てもらえない。
彼女と話すには、直接出向く以外になさそうだ。
さんざん痛め付けられた状態で、徒歩二〇分近く掛かる目目森博物館に行けるだろうか。
仮に辿り着けたとしても、火事を目撃した近所の人が、通報していないとは考えにくい。先に逃げた三人組も、「すぐにお巡りさんを呼ぶ!」と息巻いていた。
ハイネより先に、警察官や消防士が駆け付けるのは間違いない。
勿論、〈3Z〉は記憶を消す手段を持っている。しかしこれだけ多くの目撃者がいて、被害の大きい事件を隠蔽しきれるのだろうか?
「……考えたところでどうしようもねーか」
半平は大きく頷き、自分の発言を肯定する。
花瓶や窓を割ったとかならともかく、職員室を丸焦げにしてしまったのだ。他人の目に触れさせたくないと思っても、自分独りの力ではどうしようもない。
今すべきなのは、一刻も早くハイネに連絡を入れること。そして今にも泣き出しそうな顔をしていた三人組に、ピンピンしているところを見せてやることだ。
エリも博士も太も、きっと死人が生き返ったようにビックリする。
凶暴な怪物を倒した勇者は、さぞかし尊敬の眼差しを向けられるだろう。
三人の記憶が弄られなければの話だが。
「……じゃ、行くか」
結論を出した以上、長居は無用だ。
救急隊員にでも捕まってしまったら、ハイネに報告することが出来なくなってしまう。
どこをどう動かせば痛まないか。
そもそもどこが動かせて、どこが動かせないのか。
半平は探り探り床を這い、出口に向かう。
結局、目と鼻の先にある場所に辿り着くのに、三分近く掛かってしまった。
「あいてて……! こんなんで博物館まで行けるかねえ……」
もっさりと――寝不足の朝のように立ち上がり、壁にもたれ掛かる。
次の瞬間、胸に去来したのは、優秀すぎる耳への恨み辛みだった。
なぜ拾ってしまうのか。
火災報知器よりずっと小さな呻き声を。
ぐ……らあ……。
首筋に冷たい電流が走り、全身の筋肉が強張る。
何が起こっているのか? 確認してからでは遅い。遅すぎる。
号砲のように鳴った心臓を合図に、半平はスタートを切る。
すぐさま四肢に焼け付くような痛みが走り、肋骨が軋む。
足の裏と床がぶつかる衝撃が、怪物に締め上げられたこめかみに響く。
だが、足は止めない。
どんな苦痛でも、感じられなくなるよりはマシだ。
半平は自然と潰れていく目を見開き、最短距離と見なした机の上に跳び乗る。そしてそのまま壁際まで疾走し、不審者対策として用意されている「さすまた」を取った。
素早く振り返り、槍投げの構えを取る。
刹那、強烈な輝きが瞳を射貫き、半平の視界を真っ白く塗り潰した。
まさか太陽が地上に落ちてきたのだろうか?
いや、逆に立ち上がっていたのだ。
ついさっきまで、俯せていた怪物が。
外れんばかりに開いた大顎は、沸々と煮立つ光を溜め込んでいる。
「う……ああ……」
トンネル中に転がるコンクリ片。
バターのように融けたブロック塀。
空き地に立ちこめる黒煙。
白くなりかけた頭の中を、あの夜の悪夢が駆け巡る。
ブロック塀を粉砕する光弾相手にさすまた?
まだ素手でワニと格闘するほうがマシだ。
それでも、使う。
使うしかない。
一発で吹き飛ぶ棒切れでも、丸腰よりはいい。
「畜生っ! 畜生っ!」
喉が裂けんばかりに咆哮し――いや、夜泣きのようにただただ叫き散らし、さすまたを投げる。迎え撃つ怪物は雄叫びを発し、光弾を吐き出した。
途端、室内全体に輝きが広がり、輪郭、色と物体のアイデンティティを掻き消していく。水浸しになっていた職員室は、一瞬にして火の海と化した。
沸騰した水溜まりから蒸気が膨れ上がり、爆風のように吹き荒れる。
激烈な風圧に晒された壁や床は、表面から剥がれるように砕け散った。
無数の残骸が飛散し、空中のさすまたを打ち据える。
向かい風の爆風と投石の二重苦に陥ったそれは、融けながら床に落ちた。
金属が落ちたにしては柔らかい音が鳴り、液化したアルミが飛び散る。
普通に考えるなら一瞬の出来事のはずだが、飛沫の舞うスピードはスローモーションのように遅い。命の危機に陥ったことで、また体感時間が遅くなったのだろう。
相変わらず身体の反応速度はそのままで、どれだけ力を込めてもコマ送りにしか動かない。光弾はじわじわと忍び寄り、棒立ちの身体をゆっくり焼き上げていく。
じゅわっ……。
全身の脂が焦げ、香ばしい臭いが嗅覚を占拠する。
その内に手から足から焦げ茶の煙が立ち上り、霧状のススが視界を霞ませていく。たぶん、炭化し、体表から剥がれた皮膚だろう。
高温の空気をまともに吸うと、喉に煮え湯を注がれたような痛みが走る。
気道から肺に流れ込んだ熱気は、内側から身体を蒸し焼きにしていった。
次第に全身の感覚が薄れ、代わりに服を脱いだような肌寒さが広がっていく。きんきんに冷えた氷を熱く感じるように、火葬されると寒気を覚えるものなのだろうか。
不思議に思い、半平は腕に目を向ける。
寒さを感じて、当たり前だ。
「防寒着」の毛が肉が、毟ったように吹っ飛んでいる。
見事に剥き出しになった骨は、煮立った血に茹でられていた。




