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⑤バックドラフト

 小指、薬指、中指……。

 むち打ちの痛みにあらがいながら、一本ずつ右手の指を畳んでいく。

 そうして拳を握れることを確認すると、半平は怪物の背中を見据えた。


 初詣の時、賽銭箱には一〇〇円しか入れなかった。

 ライオン以上の猛獣に勝たせてくれなんて、間違っても祈れない。

 だが「時間を稼がせてくれ」と言う願いくらいなら、叶えてもらえるはずだ。


 公衆電話だってゲーセンのゲームだって、一〇〇円入れれば延長出来る。

 せめて三人組が安全な場所に逃げるまで、身体を動くようにしてくれ。


「こんのぉぉ……!」

 半平は雄叫おたけびを上げ、自分を鼓舞し、腹筋にありったけの力を込めた。

 額の血管を戦慄わななかせながら、無理矢理身体を起こしていく。

 自然と鼻息が噴き出すと、赤黒い塊が宙を舞った。

 たぶん、固まったばかりの鼻血だろう。


 ようやく上体が起き、血に濡れたカーゴが視界に入る。

 改めて確認してみると、右腿にカッターが刺さっていた。

 天井から落ちた時に刺さったのだろうか。なんにせよ、いい武器だ。


 半平は痛みに備え、息を止め、カッターを引き抜く。

 直後、両手で身体をね飛ばし、怪物の背中に飛び掛かった。

 いや、「飛び掛かった」と言う表現は正しくない。

 正確には空中に身体を放り出し、怪物に倒れ込んだと言うべきだろう。


 ぐ、ぐらあ!?


 怪物の背中に半平がのし掛かり、音程の外れた悲鳴が上がる。

 全体重を乗せたカッターは、怪物の腰にやいばを立てた。


 校舎中に苦痛の絶叫が轟き、返り血が服を濡らす――。


 普通の生物同様、怪物の身体が肉で出来ていたなら、半平の想像通りになっていたはずだ。

 だが残酷なことに、怪物の身体は鋼だった。


 ガキッ!


 カッターと怪物の体表が接触した瞬間、鉄をかじったような音。

 すぐさま手が細かく痺れ、板状の金属片が床に落ちる。

 そう、折れた刃先が。


 ぐらあ……?


 眠そうに鳴き、怪物はカッターの当たった腰を撫でる。

 それから無造作に拳を握り、半平の腹に叩き込んだ。


「がはっ……!」

 腹から背中に衝撃が突き抜け、半平のはらわたまわす。

 一瞬、飛んだ意識が戻ると、霧状の吐血が視界を塗っていた。


 やっぱ、五〇〇円入れとくべきだったなあ……。

 元日の自分に恨みの眼差しを向けても、後悔は先に立たない。


 半平はうめくことさえ出来ずに、強打された腹を抱える。

 そしてそのままよろよろと崩れ落ち、怪物の足下に座り込んだ。


 ぐらあ!


 どきを上げ、怪物は半平の頭を掴み取る。

 それから高々と半平を吊り上げ、敵将の首のようにかかげた。


 人外の怪力が半平の頭を締め付け、ぎちぎちと頭蓋骨がうめく。

 ぎぎ……ぎぎぎ……。

 自分でも意識しない内に、ぶつ切れの悲鳴が漏れ出し、視界が霞んでいく。


 何かないか、何か、なんでもいい……!


 辛うじて意識を保ちながら、半平は必死に辺りを探る。

 その瞬間、机の上のライターから見えない線が伸び、床に転がったスプレー缶と繋がった。どうやら命の危機に瀕し、一六年間眠っていた第六感が目覚めたらしい。


「ぐっ……!」

 半平は全身の力をこそぎだし、カッターを振り上げる。

 続けて怪物の目玉に狙いを定め、いびつに折れた刃先をねじ込んだ。


 ぐらぁぁ!?


 軟球なんきゅうを潰したような感触と共に、窓枠を震わす絶叫。

 怪物の眼球から黄緑の液体が噴き上がり、天井に吹き付ける。

 返り血だろう飛沫しぶきは半平の顔面にも吹き付け、口中に生臭く苦い味を広げていった。舌が少し痺れる辺り、神経しんけいどくに似た成分を含んでいるのかも知れない。


 ぐらぁー!


 怪物は半平を放り投げ、カッターの立った目に手を運ぶ。床に落ち、うつぶせになった瞬間、半平はビーチフラッグスのようにスタートを切った。


 まず机の上のライターをかっさらい、床のスプレー缶にダイブする。たちまち床と痛めた肋骨が衝突し、激痛が息を詰まらせた。


 本当は明日までおねんねしていたいが、ゆっくりはしていられない。憎悪に顔を歪めた怪物が、真後ろに――体温が感じられる距離にまで迫っている。

 き出しになった牙は、明らかに宣言している。

 お前をバラバラに食いちぎってやる、と。


「クソッ!」

 半平は人生最速の寝返りを打ち、うつぶせからあおけに変わる。

 同時にスプレー缶を突き出し、火のいたライターをノズルの前に構えた。


「魚は大人しく焼かれてろ!」

 目の前の怪物に宣告し、力の限り噴射ボタンを押し込む。

 一瞬、紅蓮の閃光が視界を染め、怪物の顔面に猛火が吹き付けた。


 粉末式の消火器は、燃焼を阻害する化学反応で火を消している。


 結果こそ水を掛けた時と一緒だが、火元の状態は違う。

 水を使った場合、火元の温度は火がかないレベルまで下がっている。

 対して消火器で鎮火した場合、火元の温度はほとんど変わっていない。

 ライターやマッチを近付けようものなら、またすぐに火がいてしまう。


 消防団で教えられた話は事実だった。


 怪物の全身にこびり付いていた消火剤は、何ら炎を食い止める役割を果たさない。体表のぬめりと混じり合い、片栗粉のようにとろみが付いていたことは、恐らく関係ないだろう。


 またたく間に炎が怪物を包み込み、二㍍オーバーの火柱が建つ。

 すぐさま黒煙が天井を這い回り、部屋中に魚を焦がした臭いを広げていった。ツンと鼻を刺す感じと言い、そこはかとない硫黄いおうくささと言い、焼き魚には適さない素材のようだ。


 ぐらあ! ぐらあ! ぐらあ!


 達磨だるまになった怪物は踊り、踊り、踊り狂い、職員室を駆け回る。

 炎を消そうと、一心不乱に藻掻もがいているのだろうか。

 いや、パニックに陥っただけかも知れない。


 怪物に掴まれたカーテンが、宙を漂う答案用紙が炎に包まれ、室内の空気を熱していく。程なく白い壁紙が紅蓮に照らされ、壁掛けの温度計が砕け散った。


 ぐ……らあ……。


 か弱く悲痛な声で鳴きながら、怪物がロッカーの側面をずり落ちていく。

 そのまま奴は床へ落ち、炎に押し潰されるようにうつぶせた。


 終わりか……?

 いや、まだだ。


 ぐら……あ……!


 にわかに匍匐ほふく前進ぜんしんを始め、怪物は半平に迫る。

 ずるずると床に腹を擦り付ける様子は、ゾンビと言う他ない。


「来るな! 来るな!」

 半平はわめき散らし、怪物の顔面に靴底を叩き込み、叩き込み、叩き込む。

 靴底のラバーが融け、怪物との間に糸を引く。知ったこっちゃない。

 怪物からカーゴの裾に延焼し、煙が棚引く。どうでもいい。


 半平はただひたすら靴底を振り下ろし、怪物の顔面を踏み付ける。

 びしょ濡れになった額から、冷や汗と脂汗の豪雨を散らしながら。


 ぐぇ……!


 やがて怪物の顎にかかとが入り、火の粉のぜる音に短い悲鳴が混じる。その瞬間、怪物の動きがピタリと止まり、半平の足首を掴んでいた手が床に落ちた。


 やったか!?


 禁句を叫びそうになった半平は、慌てて口を押さえる。

 あやうく自分自身で、「やってない」ことを確定させてしまうところだった。

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