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④雨に唄えば

 ~前回の続き~

 宿主を操る寄生虫と言えば、レウコクロリディウムも有名です。

 彼等は宿主のカタツムリを目立つ場所に誘導し、次の住居である鳥に食わせてしまいます。


 寄生されたカタツムリは、触角が肥大化してしまいます。

 鳥にはこの触角が、エサとなるイモムシに見えるそうです。


 本当は「箸休め」で語ろうと思ったのですが、思うように資料が集まりませんでした。

 機会があれば、詳しく語ることもあるかも。

 あっと言う間に背中が天井へ突っ込み、蛍光灯の破片ごと机に落ちる。

 途端、バチバチと視界が明滅し、後頭部から首に鋭い痺れが走った。


 一瞬にして体内の酸素が口から飛び出し、今度は逆に息が詰まる。

 どうすれば、肺に空気を送り込めるのか。

 一六年間、意識することもなかった行為が、一向に再開出来ない。脳味噌に強い衝撃を受けたせいで、呼吸の「いろは」が飛んでしまったのだろうか。


 ぐらあ……。


 怪物はさっさと立ち上がり、職員室を出ようとする。

 ぐぇ……ぐぇと無様にうめく獲物を見て、放っておいても長くはないと思ったのか。それともドの付くSで、もっと活きのいい獲物をいたぶりたいのか。

 どちらにしろ、職員室の外に出すわけにはいかない。

 そんなことを許せば、まだ近くにいるはずの三人組が危険にさらされる。


 半平は下唇を噛み、痛みにあらがい、机から起き上がろうとする。

 だが、大の字になった身体は動かない。


 それでも力むと、肋骨が鈍くきしみ、血と混じった胃液が喉をり上がる。

 ようやく小指を動かすと、首から全身に電流が走った。

 天井から落ちたショックで、むち打ちになってしまったのだろうか。


 これじゃ、どうにもなんねーじゃん……。


 自分の不甲斐なさに涙が浮かび、諦めの言葉が脳裏をぎる。

 途端、視野の両端に暗闇が出現し、視界を侵食し始めた。体力に続き、気力も限界を迎えたことで、意識が失われようとしているのだろう。


 程なく眩暈めまいが始まり、物体と言う物体の輪郭がどろりととろけていく。比例して視界の底には、絵の具のように混じり合った景色が溜まっていった。


 重傷を負った身体に、混濁した意識。

 こんな状態で何が出来る?

 このまま気絶してしまっても、結果は変わらない。


 元々、お前は何の力もないガキだ。誰かを守ることが出来なくても、仕方がない。三人組や教頭が怪物に傷付けられても、お前の責任じゃない。誰もお前を責めない。


 無意味に目を開け続ける半平に、心の声が優しく囁く。

 普段なら、保身(まみ)れの詭弁きべんにしか思えないだろう。

 だが激痛にさいなまれる今の半平には、それが正論にしか聞こえない。

 世界の誰であろうと、言い返すことは出来ないはずだ。


 半平は試しに、少しだけまぶたの力を抜いてみる。

 途端に口の中を支配していた血の味が、肋骨のうずく痛みが、身体から離れていく。清々しいまでの解放感は、半平の顔を笑みに染めていった。


 もう、いいよな……?


 半平は自分に問い掛け、布団に入った時のように四肢の力を抜いていく。

 すぐさま視界一面に暗闇が広がり、わずらわしい怪物を塗り潰した。


 見る見る意識が溶け出し、暗闇の一部と化していく。

 あと数秒もあれば、深い眠りが半平を迎えるだろう。


 だがその前に、声が聞こえた。


 今までと打って変わって、冷淡な声が。


 繰り返すんだな、お前は……。


 突如、全身に微弱な電流が走り、手放し掛けていた意識を呼び戻す。途端、見渡す限り真っ暗だった視界に、歪んだガードレールが浮かび上がった。


 眠りに落ちるのを待てずに、慌てん坊の夢がやって来たのだろうか。

 いや、死の間際に見る走馬燈かも知れない。


 空と街の間は、分厚く濁った雲に塞がれていた。


 青信号と共に車が走り出し、低い土埃が地表を覆う。ガードレールに吹き付ける排気ガスは、手向たむけの菊をさめざめと震わせていた。


 花束の傍らには、無数のスナック菓子が供えられている。

 目に痛い原色のパッケージは、重い頭痛を更にひどくしていった。


 次第に耳鳴りが聞こえだし、外部の音を掻き消していく。横断歩道の年寄りをかすクラクションも、迷子の泣き声ももう聞こえない。


 目で確かめる限り、沿道の景観に変化はない。

 にもかかわらず、昨日までは普通にあったリアリティがどこにもない。

 視界に入る全てのものが、大仕掛けなセットに見える。


 遠くのビルは垂れ幕に描かれた絵で、近くの建物は安っぽい書き割り。

 鉛色のアスファルトは、雲のように柔らかい。妙にふわふわした足下のせいで、今立っている場所が現実なのかさえ疑わしくなってくる。


 あの日、半平は落ち着きなく頭を動かし、周囲を見回していた。


 もうすぐ、隠れて様子を見ていたクラスメイトたちが、我慢出来ずに飛び出して来る。引っ掛かった、引っ掛かったと大笑いしながら、誰も彼も跳ね回る。


 そう、そうだ。一秒後にはそうなる。


 明日、学校に行けば、今まで通り、あの席に彼女が座っている。


 半平は根拠のない断定を重ね、疑いの声を封じる。同時にスムーズに驚くため、リアクションのシミュレーションを重ねながら、仕掛け人たちの登場を待った。


 やがて雲が黒く染まり、凍て付いた雨が降り出す。

 ずぶ濡れになった前髪から水滴が降り注ぎ、雨水を吸った服が肩にのし掛かる。


 まだ、誰も出て来ない。


 血の気を失い、青ざめていた手が、あかぎれに染まっていく。


 まだ、誰も出て来ない。


 不意に横殴りの突風が吹き、路肩に掛かったビニールシートをめくる。

 アスファルトに残っていたものは、二つ。

 どす黒いブレーキこんと、真新しい血痕。


 作り物と言い逃れるには鮮やかすぎる緋色が、半平に教える。


 明日、学校に行っても、彼女の姿はない。


 半平は呆然と崩れ落ち、水溜まりに膝を着く。

 びしょ濡れだったカーゴが更に水を吸い、氷のような冷たさが這い上がる。

 同時に血の臭いが肌を遡上そじょうし、全身に染み込んでいった。


 土砂降りの雨に洗い流され、路面一杯に広がった血は、何百倍、何千倍にも希釈きしゃくされていたはずだ。半平が膝を着いた場所には、僅かな成分さえ混じっていなかったかも知れない。


 だが帰宅した後、半平が何度手を洗っても、血の臭いは消えなかった。


 スチールのタワシで皮膚を削り取っても、彼女の香りは鼻に訴え続けた。


 ……また、あんな思いをするのか?


 再び胸の中から声が響き、半平に問い掛ける。途端にあの日見た光景が消え去り、目の前が真っ暗に染まった。そう、彼女が亡くなったと聞いた時のように。


 俺の責任じゃない? 殺したのは俺じゃない? 純然たる事実だ。


 だが、お前は納得しない。


 棺桶の前に立ち尽くし、自分を責め続ける。

 出来ることをしなかった、俺を守るために見過ごした、と。


 胸の内から聞こえる声には、糾弾のような鋭さも、皮肉るような嫌みったらしさもない。

 なのに、胃液とは違う苦さを口中に広げる。

 肋骨の痛みなど比較にならないほど、顔を歪ませる。


 どこの学者がどんなに筋の通った慰めを口にしたとしても、お前はお前を許さない。棺桶の中の人が許すと言うまで、自分を許さない。

 彼女を見捨てた時に思い知っただろう?

 それでもまだ繰り返すのか、お前は。


「……思い知ってないわきゃねーだろ」

 吐き捨てるようにこたえ、半平は奥歯を噛み締めた。


 後頭部で机を擦りながら、持ち上げるには重すぎる頭を振る。

 少しずつ視界の暗闇が晴れ、入れ替わりに職員室が広がっていく。ロッカーも本棚もゆらゆらしているが、この程度ならまっすぐに走れるだろう。

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