③ゼロ・グラビティ
寄生した相手を凶暴化させてしまう〈YU〉。
彼等のような存在は、フィクションではありません。
自然界には本当に、宿主の行動に影響を及ぼす寄生生物が棲息しています。
例えばカマキリやバッタに寄生するハリガネムシは、宿主を入水自殺させてしまいます。そうして水中に行き、卵を産むのだそうです。
生き物が好きな人には、有名な話ですかね?
「逃げろ……」
何とか絞り出し、半平は口を押さえる。
もうすぐ「アレ」が出て来るかと思うと、今にでも吐きそうだ。
「はぁ?」
エリは耳に手を当て、半平に聞き返す。突然、壁にもたれ掛かったことも含めて、何かの冗談だと思っているのだろう。
冗談じゃねぇ……!
半平は歯軋りし、エリの両肩を掴む。
「逃げろ!」
渾身の力を込め、エリを怒鳴り付ける。鼓膜が破れてもいい。一刻を争う事態が伝わらなければ、音どころか命を失うのだ。
「……へ?」
急に大声を出された三人組は、目を点にし、立ち尽くす。
後で幾らでも驚いていい……!
今は、今は動いてくれ!
半平の祈りも空しく、校舎中に轟くニワトリの断末魔。
ニワトリ?
いいや、校庭の飼育小屋は空だった。
これは、人間の悲鳴だ。
「た、助けてくれぇ!」
七三に分けた髪を振り乱し、職員室から教頭が転げ出る。
血痕によって水玉模様になったスーツに、ヒビの入った眼鏡。トンネルの学ランが茶髪以外には目もくれなかったように、用務員は教頭にご執心らしい。
ぐらあ!
凶暴な絶叫が響き、職員室から用務員が飛び出す。
すかさず彼は教頭を睨め付け、頭上に構えていた椅子を放り投げた。
「うわああ!」
教頭は犬掻きのように床を這い、一目散にその場を離れる。
狙いを外した椅子は窓を突き破り、猛然と校庭に飛び出した。
何とかしろ! 皆が助かる方法を思い付け!
けたたましく降るガラス片が、じわじわと教頭に迫る用務員が、半平を追い立てる。反射的に半平はポケットへ手を突っ込み、スマホを掴み取った。
暴走した用務員だけなら、自分にも対処することが出来る。
しかし悔しいが、光弾を吐く怪物に立ち向かえるのは、ハイネしかいない。
汗で滑るスマホを何とか取り出し、彼女に電話を掛ける。
だが何度掛け直しても、電波が届かないところにいるか、電源が入っていないかの一点張り。
心の底から祈っても、今、拳銃より必要な「もしもし」が引き当てられない。
早く! 早く!
足踏みする半平を嘲笑うかのように、用務員はゆっくり跪き、天井を仰ぐ。
天に祈りを捧げているとしか言いようのない体勢――。
怪物を吐き出す直前、学ランも全く同じポーズを取った。
ぐらあ!
分娩中の妊婦のような絶叫が轟き、用務員の口が大きく開く。
瞬間、彼の喉から黄緑の粘液が噴き上がり、天井に引っ付いた。
ごぼ……ごぼ……。
用務員から送り込まれる粘液が、天井に水溜まりを広げていく。
黄緑の水面はすぐさま泡立ち、最悪を具現化した姿に変貌していった。
違ってくれ、大きな頭。
違ってくれ、櫛のように鋭い牙。
他はいい、これだけは違ってくれ、口の中の提灯。
一心に祈りながら、半平は逆さまの怪物を見回していく。
切実な願いは、ことごとく裏切られた。
頭でっかちな体型。
簡単に人体を刺し貫くだろう牙。
光弾を放つ提灯。
何もかも、あの夜と同じ。
まさにアンコウ目サウマティクティス科のサウマティクティスだ。
ぐらあ……。
ほくそ笑むように鳴き、怪物は床へ降り立つ。
軽く肩を振り、粘液を篩い落とした奴は、教頭ににじり寄っていく。
標的になったのは、一番近くにいたから?
いや、用務員が憎悪を向けたことも関係しているのだろう。
「う……ああ……」
化け物を前にした教頭は、すっかり腰を抜かしている。
このまま傍観していれば、確実に五体を引き裂かれるだろう。
「クソッ!」
咄嗟に駆け出し、半平は備え付けの消火器を引ったくる。
続いて消防団で習ったように安全弁を抜き、ホースの先を怪物に向けた。
レバーを引いた瞬間、前方に立ちこめる白煙。
ノズルから粉末状の消火剤が噴き出し、怪物を呑み込む。
ぐらあ!?
視界を失った怪物は、滅茶苦茶に手足を振り回す。
すかさず半平は怪物の頭に狙いを定め、空になった消火器を投げ付けた。
低い放物線が白煙に飛び込み、怪物の頭頂部に墜落する。間髪入れず、鐘を撞いたような音が木霊し、怪物の口から短い悲鳴が飛び出した。
ぐ、ぐらあ……!?
頭頂部を強打された怪物は、酩酊した酔っ払いのようにふらつく。
大人でも片手では持ち上げられない消火器を、思い切り叩き付けられたのだ。どんなに頑丈でも、平気なわけがない。
好機!
半平はヘッドスライディングのように踏み切り、怪物の懐に突っ込む。千鳥足だった怪物は見事に仰け反り、職員室のドアに倒れかかった。
途端にドアが外れ、室内に倒れ込む。支えを失った怪物は仰向けに転倒し、懐の半平ごと職員室に雪崩れ込んだ。
「逃げろ! その人たち連れて逃げろ!」
半平は怪物に馬乗りになり、手足を押さえ込む。
一応、動きは封じたが、長くは保たない。
何しろ、コンクリを砕く怪物が本気で抵抗しているのだ。
現にこうしている間にも、全身の筋肉がゴムのように軋んでいる。
そう、断裂寸前のゴムのように。
「で、でも、半平は……」
博士は青い顔で聞き返し、アシカのように手を揺り動かす。
助太刀したいとは思っているが、何をすればいいか判らないらしい。
「行け!」
半平は力の限り踏ん張り、膝の震えを止める。
それから恐怖に強張った顔を無理矢理動かし、歯を覗かせた。
「ドリルは……俺が届けてやっから」
「はんぺー……」
不細工な笑みを見た三人組は、顔を見合わせ、力強く頷く。
「待ってろよ! すぐお巡りさん呼んでくるから!」
三人組は半平の目を見つめ、固く約束する。
直後、エリと博士は教頭に、太は用務員に肩を貸し、玄関へ走った。
ああ、これで俺以外死なせずに済む……。
少しはカッコ付けられたかなあ……。
思わず安堵の息が漏れ、怪物を組み敷く腕から力が抜ける。
ぐらあ……。
厭らしい鳴き声は、油断した半平への嘲笑だった。
たちまち怪物が腕を振りほどき、半平の身体を小さく跳ね上げる。そして仰向けのまま膝を突き出し、半平の腹を打ち上げた。
その瞬間、半平が味わった感覚は二つ。
まず最初に襲って来たのは、内臓を押し潰す強い衝撃。
続けざまに訪れたのは、浮遊感。
ジェットコースターが頂上から一気に滑り落ちた時のような、一瞬の無重力だった。




