②サイン
「理科室の天井、焦げてるだろ?」
「実験中に事故って、女子が死んだんでしょ?」
「七不思議の一つだよ~。夜になると、泣き声が聞こえるんだって~」
太は顔を真っ青にし、身震いする。
「七不思議って……アレ、俺の仕業」
根も葉もない怪談に苦笑し、半平は自分の顔を指す。
「マジ!?」
大声で口走り、エリは分身魔球のように唾を飛ばした。
一方、博士は得意げに言い、トレードマークの眼鏡を押し上げる。
「ほら、だから言ったんだよ。幽霊なんて非科学的だって」
「ガスバーナー使った実験の時だったっけ。火災報知器鳴って消防車来るわ、スプリンクラー動いて水浸しになるわ、もう大騒ぎ。あん時は森先生にすっげぇ怒られたなあ」
「森先生って怒るんだ……」
信じられなそうに言い、エリはぽかんと口を空ける。
「え? お前らは怒られたことねーの?」
半平が訊くと、三人組は迷わず頷く。
「そっか、あの森先生がねえ。今はそんなんなのか」
半平はしみじみ呟き、改めて校内を見回してみる。
想像以上に蛍光灯は明るく、天井はやたら黒ずんでいる。背が伸び、距離が縮まったことで、小学生の頃よりよく見えるようになったのだろう。
真新しい下駄箱には、同級生の落書きも見知った名前もない。
さっき挨拶した森先生も、記憶の中の顔と照らし合わせてみると、しっかりシワが増えていた。変わらない変わらないと思っていたのは、先入観に過ぎなかったらしい。
無頓着に見送っている一日一日、二四時間を目敏く積み重ね、着実に歳月は流れている。
そしてもうここに、沼津半平の席はない。
当たり前の事実を直視すると、なぜか置き去りにされたような寂しさがこみ上げてくる。
……随分、おセンチだな。
半平は自分自身を笑い飛ばし、話題を切り替える。
「で、そーゆーお前らこそ、休みの日に何の用だよ。あ、もしかして、気になるあの子のリコーダーでも舐めに来たとか?」
「ンなことしねぇよ! はんぺーじゃねぇんだから!」
博士は目を吊り上げ、半平に突進する。
「俺だってしねーよ! 体操服の臭いを嗅いだくれぇだ!」
半平は犬歯を剥き出し、青春時代の過ちを告白する。
途端、ひぃ……っと消え入りそうな悲鳴が上がり、三人組が一〇歩ほど後ずさる。軽いジャブのつもりだったが、幼気な小学生には刺激が強すぎたらしい。
「ドリル取りに来たんだよ。宿題出てんのに忘れて来ちゃったんだぜ、こいつ」
エリは刺々しくボヤき、じと~っと太を見つめる。
「だってぇ……」
いたたまれなくなった太は項垂れ、手を揉み始める。
大分、居心地が悪そうだ。この辺で助け船を出してやったほうがいいだろう。
「はいはい! 無駄話はここまで!」
半平は空気を変えるために手を打ち、太の尻を叩く。
「ほら、ちゃっちゃと運んじまうぞ!」
「う、うん」
戸惑いがちに応え、太は目を拭う。
それから丸々肥えたお腹を揺らし、段ボールの山へ走った。
「ちゃんと力入れろ! 腰悪くすんぞ!」
やる気なく背中を曲げ、段ボールを運ぶ三人組に、半平親方の檄が飛ぶ。
配達先は二階の家庭科室。
ひとまず階段の下に集め、踊り場、二階と運び上げていく作戦だ。
「お前らの裁縫箱が入ってんだからな! 落っことしたら、泣きを見るのはお前らだぞ!」
「こういうのって、用務員さんの仕事だろ~」
段ボールの中身を聞いても、エリはふくれっ面を萎ませない。
「あれ? 知らねーの? 用務員さん、もうずっと休んでるんだってよ」
半平が告げると、太を除いた二人が頷く。
「そう言えば、最近見なかったな」
「登校拒否じゃね? いっつも教頭にネチネチ言われてるし」
「あれれ~? 用務員さん、いるよ~?」
あれこれ邪推するエリと博士に、太が割り込む。
不思議そうに首を傾げた彼は、玄関を指していた。
確かに下駄箱の前を、中年男性が徘徊している。
何度か見たことのある顔だが、今日の彼はやたら身なりが汚い。
ワイシャツもスラックスもしわくちゃで、口の周りには白髪の交じった不精ヒゲ。力なく腕を垂らし、足を引きずりながら歩く姿は、命辛々逃げ出してきた敗残兵のようだ。
「こんにちは~」
大きな声で挨拶し、三人組は用務員にお辞儀する。
「きちんと挨拶」は、「はっきり返事」と並ぶ森学級のルールだ。
いい大人として、半平も悪い手本は見せられない。
「ちわっす!」
半平は一度段ボールを置き、用務員に頭を下げる。
だが、彼は挨拶を返さない。
それどころか、一瞥もせずに半平たちの前を通り過ぎた。
ひたすら正面を凝視する姿は、半平にあり得ない疑問を抱かせる。コンビニの店員以上に溌剌とした挨拶が、実は囁きに過ぎなかったのではないか。
「……手伝えよ」
「……シカトかよ」
「……誰のせ~でこんなことしてると思うんだよ~」
完璧にスルーされた三人組は、小声でブーたれる。
半平もいい気持ちではない。
無視されたから?
いや、原因は無性にざわつく胸だ。
まさか、獰猛な獣に追い掛けられているとでも言うのだろうか。
刻一刻と鼓動が荒くなり、呼吸のピッチが速くなっていく。
付随して、冷たい汗が噴き出し、鳥肌が背中を埋め尽くした。
変調を引き起こしているのは、「既視感」。
そう、徹底して正面を向く用務員に、目標以外見えないような態度に、半平は見覚えがある。
……あり得ない。
無理矢理笑みを浮かべ、半平は震える手を握り締める。
確かに、半平は用務員と似た状態の人間を知っている。
だが、正気を失う原因になっていただろう「それ」は、ハイネに駆除された。
仮に「あれ」が複数棲息していたとしても、そうほいほい出くわすわけがない。何と言っても、一六年間生きてきて、一回しか遭遇したことのない相手なのだから。
単純に、用務員は人当たりが悪いだけ。
殺されかけたトラウマのせいで、ちょっとしたことにも過敏になっているのだろう。
落ち着け……! 落ち着け……!
必死に自分を宥め、半平は深呼吸を繰り返す。
その最中、用務員は職員室の前で立ち止まり、乱暴にドアを開いた。
直後、半平の目に飛び込んだのは、濁った光。
蛍光色に輝いている。
用務員の眼球が。
……最悪だ。
抗いようのない恐怖が、絶望が全身を支配し、半平の頭を真っ白く染める。途端に半平は大きくよろけ、壁にもたれ掛かった。とても立っていられない。




