①シスの復讐
久々に尋ねた小学校は、独特の乾燥臭を漂わせていた。
原因は上履きにチョーク、石灰と言ったところか。通っていた頃は全然意識しなかったが、他の場所ではなかなか嗅がない臭いだ。
今日は創立記念日で、教室にも校庭にも子供たちの姿はない。
校内は極めて静かで、靴底が床を滑った音さえ廊下中に反響する。
キュッ! と小気味よい音は、鬱陶しいほどに主張していた。
ワックス掛けは行き届いてますよ。
「っし!」
半平は気合を入れ、玄関に積まれた段ボールと向き合う。
――とそこに通り掛かったのが、顔馴染みの三人組だった。
「不審者だー!」
ご近所に喧伝したのは、野球帽を被ったエリ。
こういう時だけ、やけに声が高い。
「はんぺー、何やってんだよ!」
「わかった~!」
小太りの太が頷き、肉まんそっくりの頬をたぷたぷさせる。
「盗撮とかゆ~のでしょ~? こないだのおね~さんにフラれて~、女の人に飢えてるんだあ~」
「フラれた、ねえ」
無意識に呟き、半平はポケットのスマホを出した。
〈詐術師〉の存在を教えられてから、およそ四〇時間。
半平の周囲に、これと言った変化はない。
気付いていないだけで、監視くらいはされているのかも知れないが。
目目森博物館で別れて以来、ハイネからの連絡は一度もない。
液晶に番号を表示し、消すと言う牛歩戦術を半日繰り返し、ようやく電話を掛けられたのが三時間前。
返ってきたのは、可能性の提示だった。
何でもハイネのスマホは電源が切られているか、電波の届かないところにあるらしい。今日は冷食が半額だとメールもしてみたが、今のところ返事はない。
事件の捜査で忙しいだけ。避けられてるわけじゃない。
変に焦らなくても大丈夫。一週間も経てば、ヨシばぁの店で世間話してる。
名残惜しそうにスマホを撫でる手を見つめ、半平は自分自身を鼓舞する。
だが液晶に映った鏡像は、一向に顔を上げない。いくら頭の出来が悪いと言っても、自分の見通しの甘さが判らないほどおめでたくはないようだ。
安らぎを求め、ハイネの笑顔を思い出しても、悲愴感ばかりが募っていく。
無邪気に特撮を語る彼女が、沼津半平の隣に座っている――。
ぎりぎり昨日の夜までは、日常の風景だと盲信出来た。
だが今日は、もう二度とこの目で見られない気がする。
事実、トンネル内で目にした背中は、今生の別れを告げるように震えていた。
あの日以来、半平の脳裏には彼女の後ろ姿が取り憑いている。あるいは照明の残骸から降り注ぐ火花が、脳細胞に焼き付けてしまったのかも知れない。
骸骨に変身する直前、ハイネは震える声で絞り出した。
ごめんなさい、と。
謝罪が人間ではないことに対してなのか、真実を隠していたことに対してなのか、半平には判らない。そして、半平が見ていたのはハイネの背中だった。
自分が辛い時にも、他人への気遣いを忘れない彼女のことだ。
苦しげに歪む顔を見せないことは、半平に対する優しさだったに違いない。実際、この目で悲痛な表情を見ていたら、死ぬまで胸を締め付けられていただろう。
反面、自分の目で確かめられなかったからこそ、半平は思い悩んでしまう。
あの時、彼女はどんな顔をしていたのだろう?
もしかしたら、肉親を失ったように涙を溜めていたのかも知れない。いや強く唇を噛み、本当のことを隠していた自分を責めていたのではないだろうか。
答えを知る術がないと判っていても、想像することは止められない。
そして次々と頭に浮かぶ表情は、半平の胸に罪悪感を広げていく。
やめてくれ、俺なんかのために苦しまないでくれ、と。
いっそひと思いに顔を見せてくれていたら、どれだけ楽だっただろう。例え胸を締め付けられたとしても、一生答えの出ない疑問に悶々とするよりはマシだ。
詫びるのはいいとしても、なぜ面と向かって言ってくれなかったのか。
八つ当たりなのは判っていても、半平は憤りを抑えきれない。
ハイネはあれだけ頭がいいのに、なぜ判らないのだろう。
自分が辛い時くらい、他人への思いやりを忘れてもいい。
むしろ彼女が気遣うことで、相手を苦しめる場合もある。
愚痴を吐かれたり、泣き叫んだりされるより、ずっと、ずっと。
「……気にしねぇよ、吸血鬼だって、宇宙人だって」
小声で吐き捨て、半平はスマホを握り締める。
どうして、あの道を選んだ。
いや、なぜ料理の手伝いを申し出てくれた時に断らなかったのか。
ああしていれば、こうしていればと、ハイネの隣にいられた選択肢は幾らでも考え付く。
でも、どんなにいい方法を思い浮かんでも、結局は「たられば」。
現実は変わらないし、後悔を消すことも出来ない。
ああ、なぜ時計の針は戻らないのだろう。
出来ることなら、後戻りを知らない時間に掴み掛かってやりたい。
「あ~もうっ!」
半平は地団駄を踏み、髪をくしゃくしゃに掻き回す。
「……壊れた」
「……きっと初恋だったんだよ。すっげぇショックだったんだ。かわいそうに」
「……だいじょぶだよね~? 三面記事飾るような真似しないよね~?」
三人組は顔を寄せ、ひそひそ話を始める。
「手伝え! お前ら、手伝え!」
一方的に命令し、半平は段ボールの側面を叩いた。
うじうじ考えていたところで、暗くなっていくばかりだ。
身体を動かせば、少しは気分が晴れるかも知れない。
「え~」
三人組は不満の声を上げるが、半平は意に介さない。
次々と三人組の腕を掴み、段ボールの前に連行していく。
「だからなんで、はんぺーがオレらの学校にいるんだよ」
エリは唇を尖らせ、段ボールを軽く蹴る。
「言っとくけど、盗撮とかじゃねーからな! 俺は大人の女性と対等な関係を築けるの! ちびっこに歪んだ欲望を向ける必要なんかねーんだから!」
「とか何とか言って、この間のねーちゃん、小学生だろ? はんぺーも好きだねえ」
歌舞伎町の客引きのようにゲスな笑みを浮かべ、博士は半平を肘で突っつく。
「はぁ? ハイネは一五。俺の一こ下」
「ウソ!? あんなおっぱいちっちぇのに!?」
衝撃の事実に声を裏返し、エリは派手につんのめる。
「そ、あんなおっぱいだけど、一五」
強調した途端、禁断の話題に触れられた時の彼女が頭に浮かぶ。
第三部のアナキンを彷彿とさせる暗い笑み。
「コーホー」と静かに荒くなった息遣い。
シス的な出で立ちは、半平の背筋をどんどん冷たくしていく。
ただそれ以上に、過剰な反応がおかしい。
「……ンなに気にしねーでもいーじゃん。他が完璧なんだから」
つい独り言を呟くと、脱力した笑みが漏れる。
同時に少しだけ気分が軽くなり、下がり気味だった視線が上がった。
「森先生、知ってっか?」
「知ってるってゆ~か、担任だよ。森圭子先生なら~」
「そっか、今はお前らの担任なのか」
懐かしさに目を細め、半平はエリの頭を撫でる。
「んだよ! キモい!」
珍しく女の子っぽく叫び、エリは半平の手を振り払った。
「森先生は二年、三年、四年ってず~っと俺の担任でさ、色々世話になったんだ」
説明している内に、半平の顔は見る見る引きつっていく。
思い出してしまったのだ。冬でも短パンだった頃を。
「……いやいや、世話になったってレベルじゃねーな。迷惑、つーか大迷惑。そのお詫びに、こうやってお手伝いしてるわけ」
「え!? はんぺーも稔小だったの!?」
三人組は目を丸くし、驚きの声をハモらせる。




