⑨惨劇へ続く穴
第九章はこれで終わりです。
次回は番外編。
光る生物を取り上げてきたシリーズも、最終回を迎えます。
「思いやりや助け合いなど、無価値な凡人が切り捨てられまいと作り上げた詭弁だ。善意の強要でしかない互助、誰もが世間様の世話になってきたと言う、大前提ありきの報恩――こんな抽象的で恩着せがましい理屈、教室の外に出れば笑い話にもならない。成功の背景にあるのは、本人の努力や才能だ。凡人どもに恩返しする筋合いなど、どこにもない」
キモは目を見開き、畳み掛けるように言い放つ。
悔しいが、ハイネには言い返すことが出来ない。
彼女の論理を否定するには、道徳やモラルを持ち出すしかない。
だがそれは逆説的に、彼女の正しさを認めることになる。
他人の善意に寄り掛からない限り、この世界は成り立たないと。
「汗も知恵も捻り出さずに他人の資産へ群がり、我が物顔で上前をはねる? 寄生だよ、それは。有意義な使い方を知る天才なら、社会に更なる恩恵をもたらすのに役立てていた資産を、飯代一つ稼げないロクデナシに食い散らかさせる――それが本当に社会のためか? 粉骨砕身努力した成功者から徴収し、怠惰な凡人を厚遇するのが平等か? 我々と現行社会、本当に狂っているのはどちらだ?」
「私は……」
返事を保留し、ハイネは目を閉じる。
瞼の裏に待っていたのは、溢れんばかりに星を抱えた夜空。
死体のように青白い月が、氷河を擁した山脈を見下ろしている。
冬の荒れ野には霜が張り、地表には薄い冷気が漂っていた。
枯れ草の臭いが甦るにつれて、両手に凍った土の感触が広がっていく。
爪を割られ、指紋を削り取られる痛みは、顔中にシワを刻み込んだ。
お兄ちゃん、お兄ちゃん……。
女は鼻声で繰り返し、大樹の根元を掘り起こしている。
土埃に塗れ、髪を振り乱す姿は、痛ましいことこの上ない。だが、これ以上なく悲惨な様子を思い返す度に、ハイネの身体は怒りに戦慄く。
なぜああも、わざとらしい真似が出来るのか。
そう、あれは全部演技だ。
あの女は健気な姿で同情を誘い、批判から逃れようとしているだけ。肉親の命と我が身を天秤に掛ける人でなしに、死を悼む気持ちがあるわけもない。
女の所行を聞いた人たちは、誰も彼女を責めなかった。
それどころか、こう言って女を弁護してくれた人も少なくない。
自分の命が失われるかも知れなかったのだ、仕方ない。
だがそれでも――いや仮に地球上の全ての人が庇ってくれたとしても、ハイネは女を許せない。
この気持ちが誰かを見捨てると言う選択をすることなら、二度とごめんだ。
「私は……もう見捨てない」
ハイネは瞼を上げ、キモを睨み付けた。
女への憎悪が、必要以上に声を低くする。
「六人全員を助けてみせる、絶対に」
「理想論だな」
「り・そ・う・ろ・ん?」
ハイネは幼児に教え込むように、一音ずつ強調して聞き返す。
「私は〈姫〉になって、権力を得た。私は〈シュネヴィ〉を手にして、暴力を得た。私は〈ハーベイト財団〉と手を結んで、財力を得た」
自らの掻き集めてきた「力」を列挙し、ハイネは両手を眺める。
一見、空っぽに見える手の平には、沢山のものが詰まっていた。
そう、本当に沢山のものが。
満足感とも安心感とも付かない感情が膨れ上がり、ハイネの両頬を吊り上げていく。足下の水溜まりに映った鏡像は、酷く歪んだ笑みを浮かべていた。
「夢見がちな小娘の妄想も、世界を動かす力を得れば現実になる。私の五〇〇年は、理想を理想で終わらせないためにあった」
「よちよち歩きもままならないような顔をして、随分と強かじゃないか、二代目団長」
ハイネが啖呵を切っても、キモは眉一つ動かさない。
だが、声にそれまでの張りはなかった。
「君がその白い顔を真っ赤にし、手を広げようとも、全ての命は掬えない。五つをこぼすか、一つをこぼすか、選ぶ時が必ず来る」
「なら、私がその一つになる。トロッコの前に飛び出して、みんなに危機を教える」
「いるものだな、まともな顔をした狂人が」
感心したように頷き、キモは壁際の取調官に目を向ける。
その瞬間、彼は息を呑み、金縛りにあったように背筋を伸ばした。
前触れもなく視線を向けられたことに、驚いたのだろうか?
それとも、無感情な眼差しに射竦められたのだろうか?
ハイネはすぐさま、答えを教えられることになる。
係官の眼球が、黄緑に輝いたことによって。
「ぐらあ!」
取調官の口から黄緑の粘液が噴き上がり、天井に引っ付く。
ハイネは一心不乱にポケットを漁り、卒塔婆を掻き出す。間に合わない。見る見る天井に水溜まりが広がり、怪物の形を作っていく。
ぐらあ!
室内に咆哮が轟き、色素も沈着していない塊が天井を蹴る。
刹那、黄緑の残像が床に突っ込み、ハイネの脇腹に拳を叩き込んだ。
べきべき! と肋骨が軋み、金属バットで殴打されたような衝撃が身体を貫く。四〇㌔に満たないハイネは軽々吹き飛ばされ、弾丸ライナーのごとく壁に突っ込んだ。
硬いコンクリと背中がかち合い、乱暴にハイネを打ち返す。次の瞬間、ハイネは額から床に衝突し、そのまま俯せに倒れ込んだ。
「ぐっ……ああ……」
脇腹、背中と立て続けに強打された身体が、意思とは無関係に転げ回る。呼応して、止めどなく咳が溢れ出し、血と鼻水と唾の混じった液体をあちこちに吹き付けた。
そうこうしている内に胃液が逆流し、異臭の漂う水溜まりを広げる。
黄ばんだ水面には、朝食べたスクランブルエッグが浮かんでいた。
「心変わりもあるかと思い、言葉を重ねてみたが、歳月が人を意固地にするとは真理か」
ぐらあ!
賛同するように鳴き、怪物〈YU〉がキモの背後に立つ。続いて怪物は小さく息み、ニッケル合金製の手錠を麩菓子のようにねじ切った。
このままでは、キモに逃げられる!
何とか、何とか立ち上がらなければ……!
ハイネは歯を食いしばり、必死に身体を起こそうとする。
だが床に立てた爪は、いたずらにスリップするばかり。
何とか片膝を着こうとしても、思うように足を動かせない。
じたばたと膝を動かす様子は、まるで下手な平泳ぎだ。
床に頭を打った時に、脳震盪でも起こしたのだろうか。
「……っ!」
ハイネは重い顎を上げ、キモを睨み付ける。
まさに苦し紛れだが、とても大人しく寝ていられる気分ではない。
肋骨や頭は激しく疼き、視界を霞ませている。
正直、今にも気を失いそうだが、何としてでも目は閉じられない。
こんな状態で瞼を下ろしたら、明日まで意識が戻らないのは確実だ。
「そんな目をするな。止められないとは言ったが、操れないと言った記憶はない」
悪びれもせずに嘯き、キモは〈YU〉に目配せする。
ぐらあ! と威勢よく応え、〈YU〉は壁に体当たりを見舞った。
空爆まがいの轟音と共に、目目森博物館を揺さ振る激震。
突風が白煙が室内に吹き込み、コンクリ片が頭上を飛び交う。
すかさずチッ、チッとスズメの群れが囀るような音が連続し、無数の火花が瞬いた。白煙の中の粉塵が、スチール製の机を研磨したのだろう。
程なく揺れが収まり、真っ白に染まっていた視界が晴れていく――。
つい数秒前まで壁があった場所には、鉄球が直撃したような大穴が空いていた。
「行くぞ」
キモは〈YU〉を従え、悠々と穴から出て行く。
一人と一匹が向かった先には、塀も囲いもない。
雲一つない青空だけが、やりたい放題を助長するように広がっている。
「ぐっ……」
ハイネは壁を伝い、言うことを聞かない身体を引きずり起こす。
それから卒塔婆を取り出し、首に横線を引いた。
〝墓怨・墓怨・恨墓怨〟
垂れようとする腕に力を込め、実体化したばかりの首輪に卒塔婆を突っ込む。その瞬間、チーン! と縁起でもない音が鳴り、タイピン型のツマミが「P」から「E」の目盛りに一段上がった。
「へん……しん……」
ハイネの宣言に反応し、読経と竪琴の音が木霊する。間髪入れず、足下から骸骨の群れが飛び出し、ハイネの身体を包み込んだ。
骸骨の鎧に先んじて、コンタクト型モニターが実体化し、目の前に外部の光景が広がる。途端、視界が真っ赤に染まり、室内に警報が鳴り渡った。
暴徒が街に溢れ、〈YU〉も続々孵化している!
骨のサナギが砕ける音に、ディゲルの怒鳴り声が交差する。〈シュネヴィ〉は吹き荒ぶ骨片を掻き分け、惨劇に続く大穴へ飛び込んだ。




