⑦世界のトリアージ
今回は粘菌の蘊蓄の続きと、高度な口喧嘩(笑)をお送りします。
恵まれない人たちに割と厳しいハイネさん。
でも真剣に慈善活動してる人って、割と言わない気がするんですよね。
「貧しい国の人は心が綺麗」とか。
真性粘菌は脳を持たない。血管であり神経である管が、それぞれ状況に応じた変化を行い、一つの生命を司っていると考えられている。
例えば迷路のケースでは、何もない行き止まりへと続く管は、自発的に衰退していく。逆に入口と出口のエサに繋がった管は、より多くの栄養を運ぶために、刻々と太くなる。結果、入口と出口を結ぶ管だけが残り、あたかも迷路を解いたように見えると言う寸法だ。
つまり粘菌が高い知能を持つように見えるのは、人間の錯覚に過ぎない。
実際は各部が効率を徹底していった果てに、最適な形を築き上げているだけだ。
脳を持たない真性粘菌が迷路を解き、あまつさえ効率的なネットワークを構築する――。
この事実は、世界中の好事家に衝撃を与えた。
二つの実験を行った中垣教授のグループは、迷路の事例で二〇〇八年に、鉄道網の事例で二〇一〇年にイグノーベル賞を受賞している。
イグノーベル賞はノーベル賞より少し「個性的な」功績に与えられる賞で、日本では他に「たまごっち」や「カラオケ」が授与されている。「ノーベル」と付いているが、本家本元とは無関係だ。
〈PDF〉の流動路を設計する際には、変形体が使われた。
言葉の通じない粘菌に流動路を描いてもらう方法は、鉄道網を再現させる実験に近い。
つまり、寒天をヒトの形に加工し、〈発言力〉を送り届けなければいけない部分にエサを置く。変形体のスタート地点には、動力炉のある延髄が選ばれた。
流動路のデザイナーに粘菌を抜擢したのは、〈シュネヴィ〉の開発者でもあるクリスチャンだ。
背景には、彼のお財布事情がある。
夢も希望も職もないクリスチャンには、複雑な計算の出来るコンピューターが買えなかった。そこで目を付けたのが、近所の森で簡単に集めることが可能で、寒天とエサ代だけで働く粘菌だった。
仮に彼の妹が大金を出し渋らなかったら、いい大人が森を探索することもなかっただろう。
いや、逆にそれでよかったのかも知れない。
何しろクリスチャンは、分数の掛け算さえ出来ない人だった。
高性能のコンピューターを買ってあげたところで、使いこなせたとは思えない。と言うか、確実に怪しいサイトを覗いて、身代金を要求されていたはずだ。
貧乏人の思い付きによって採用された粘菌は、現在も流動路のデザインを一任されている。
間違っても、クリスチャンがリスペクトされているわけではない。単に後の技術者が知恵を絞っても、粘菌以上に効率的な流動路を作り出せなかっただけだ。
「そして〈PDW〉――いや、君たちのそれは〈PDF〉か」
キモは値踏みするように目を細め、ハイネの全身を見回す。
「我々は駆動系の役割を四肢に委ね、〈PDF〉の整備に掛かる手間を減らした。装甲を支える役目を装着者に一任し、フレームの重量を削減した。生身の手足と同じように動かせる仕組みを開発することで、人間以上に小回りが利き、戦車を凌駕する装甲を持ち、重火器を超える破壊力を誇る兵器を実現させた」
キモは反論を許さない。
一気呵成に畳み掛け、再び係官に目を向ける。
「我々だけではない。人間もまた効率を徹底し、今日の文明を築き上げてきた。そう、歴史とは発展であり、発展とは効率の追求だ。人間は効率と言う錦の御旗を掲げ、豊かな自然を無数の心を多くの命を踏みにじってきた。ならば、彼等もまた効率に淘汰されるのが筋だとは思わないか? 役立たずは排除する――彼等自身が作ったルールだ」
溜息にしては淡泊に息を吐き、キモは首を左右に振る。
「先人が無駄を省いてきたからこそ、君たちは繁栄を謳歌出来ている。なのに、なぜ効率を否定する? なぜ『人命』と聞けば、『最優先』と決まり文句を放つ? 首位の〈一七人委員会〉から最下位の七〇億位に到るまで、本当は痛感しているはずだ。この世には何事にも勝る命と、替えの利く命がある。地球温暖化、食糧危機、領土問題、内戦――およそ難題の答えは、人口調整だ。情を捨てたトリアージを行わなければ、もはや救えないのだよ。本当に救うべき重傷者、世界は」
「トリアージ」とは医療用語で、患者の状態、または助かる確率を基準にし、治療の優先順位を決める仕組みを指す。主に大規模な事故や災害が起き、多数の患者が発生した場合に適用される手法だ。
無論、真っ先に治療を受けるのは、一刻を争う患者だ。
しかし、容態が深刻すぎる場合は後回しになる。
いや、まだ命があっても捨て置く。
重篤な患者は、手を尽くしても助かるとは限らない。かかり切りになっている間に、救える見込みのある患者が命を落とすおそれがある。
まだ生きている患者を見捨てるからと言って、冷酷だと罵るのはお門違いだ。
ほとんどの場合、大規模な災害の起きた現場では、患者の数に対して医師が足りない。助けたいと言う心は全ての患者に配れても、現実に救いの手を行き届かせることは不可能なのだ。
「〈荊姫〉――三〇〇年に一人しか合格者を許さぬ難関を突破し、当時最年少で〈姫〉の座に就いた逸材だ。世界中のどこを探しても、君の名前を知らない〈詐術師〉はいない」
キモは手放しに讃え、媚びへつらうようにハイネを見上げる。何かをねだるように突き出した顔は、手錠を填められ、伸ばせない手の代わりだろうか。
「君だけではない。『黒い雷神』と誉れ高いディゲル・クーパー。天文学的確率を掴み、人間を超えた君の従者たち。君たちにこそ、〈国際殺人機構〉は相応しい。いいや、これは正当な権利だ。凡人どもは下らない意地のために争いを引き起こし、天才の足を引っ張って来た。時には嫉妬に駆られ、天才を迫害してきたのだ。いい加減、裁かれなければ、面の皮が厚すぎると思わないか?」
「私は協力しない。世界中の人が正しいってお墨付きをくれても、絶対に。あなたたちのやり方では、そこにある笑顔が失われる。今、涙の流れている場所を笑顔に、笑顔のある場所を涙に入れ換えることにしかならない」
「縁のない人間が一万死のうが二万死のうが、所詮は対岸の火事だろう? 現に大国の民衆は、快適で安全な生活を底値で甘受している。誰もが理解しているはずなのにな。途上国の子供が就学もせず、三食許されない賃金でこき使われなければ、自分たちの生活が成り立たない、と」
キモは力なく壁に寄り掛かり、天を仰ぐ。
「子供たちの待遇を改善するため、負担を増やしますとでも言ってみろ。間違いなく不平不満の嵐だ。名も知らぬ国の子供が命の保証を得るより、財布から硬貨が消えることのほうが大事なのさ、良識ある先進国の皆々様は」
「……そうですね」
ハイネは肯定し、一度俯く。
だがすぐに拳を握り、しっかりと前を向く。
キモの言葉は一つの現実で、正視に堪えないほど悲しい。
だが下を向き、目を背けていたところで、何も変わらない。
「命は星に似てます。遠くからでは数や、十把一絡げにした星座と言う形でしか量れない。けれど近くに寄れば、それぞれ違う輝きが胸を打つ。一つとして同じ輝きはない。そして私はまだ私の知らない輝きを、この世の誰にも消させない」
「誤りに感付いていながら、自分が正しいと言い張る子供だな」
ハイネの現状を揶揄し、キモは鬱陶しそうに足を振る。彼女の言う通り、床の水溜まりには、今にも地団駄を踏みそうな顔が写っていた。
「それに身近な人を守りたいと思うのは、当たり前のことです。〈詐術〉の使える私たちと違って、人間さんたちに出来ることは限られてる。ある程度、顔も知らない『誰か』を蔑ろにしてしまったとしても、責める権利のある人はどこにもいない」
「資料には度を逸した博愛主義者と記されていたが、よもや格差や搾取を認めるとはな」
「この国の人たちは少しでもいい明日を願って、手を取り合ってきた。汗を流してきた。だからこそ、今日がある。貧困の背景に搾取があるのは否定しません。出来ない。でも人間さんたちは、必死に仕組みを変えようとしてる」
ハイネは一回口を閉じ、派手に飛ばしていた唾を呑む。
「途上国の人たちが貧しいのは、全部、先進国のせい? あなたはただ、慈善団体のパンフレットを読み上げてるだけ」
ハイネはキモを睨み付け、厳しい口調で断言する。
床の水溜まりに映った鏡像は、いつの間にか鼻にシワを浮かせている。
浅はかな演説を披露されたのが、思った以上に腹立たしかったらしい。
「皆が等しく笑える未来より、自分の部族を優先して争うばかり。苦労して作った浄水設備や作物は、目先の金銭しか見えない人たちに強奪されてしまう。いつまでも外国からの援助に頼るばかりで、ロクに汗も流さない」
貧困に苦しむ人々を批判する度に、罪悪感が胸を刺す。
一方で腹に溜めていた体験を吐き出すと、長年抱えていた憂さが晴れていく。
「彼等には彼等の考え方があるのは判る。けど、貧しい生活が自分たちのポリシーを貫いた結果である以上、裕福な人たちを恨むのはただのルサンチマンです」




