①嘘
第九章の幕開けです。
はたして粘菌なんてマニアックな生物の話題に、何人の方が付いて来てくれるのか?
他にもこの章では、イカの蘊蓄を語ったりします。お楽しみに。
「安藤浩二が意識を取り戻しました」
目目森博物館のトレーニングルームに報せが届いたのは、丁度、一万回の腕立てが終わった時だった。
ハイネはトイレで顔を洗い、安藤のいる医務室に走る。
Tシャツも短パンも汗まみれで、非常に気持ち悪い。
濡れた生地が背中に貼り付き、腕を振る邪魔をする。
本来ならシャワーを浴びたいところだが、いかんせん時間が惜しい。
ハイネは脇目も振らずに廊下を駆け抜け、医務室に飛び込む。
既にディゲルは安藤の横に腰を下ろし、話を聞いていた。
「え~っと、その……」
ベッドの安藤は、取り留めのない話を続けた。
怪物を生み出したことはおろか、ここ数日の記憶も曖昧。
簡単な質問をしただけで、長々と頬をもごもごする。
ようやく口を開いたと思っても、そこからまた「え~」を伸ばす始末だ。
無論、意識を取り戻したばかりの彼に、ハキハキした受け答えを求めるのは間違っている。体内に怪物を宿していたことも、悪影響を及ぼしているのかも知れない。
そう、頭では理解出来ている。
だが実際にはっきりしない彼と向き合っていると、ついつい足踏みをしてしまう。開いたり閉じたりを繰り返す手は、今にも安藤の胸ぐらに掴み掛かりそうだ。
落ち着け……!
安藤の身体を揺すっても、情報は振るい落とせない。
落ちるのは、彼の意識だけだ。
ハイネは自分に言い聞かせ、呼吸を整える。イライラを発散するために抓った腿には、いつの間にか青アザが刻まれていた。
「……頼むから、辛抱してくれよ」
ディゲルは街に放たれたライオンを見るような目で、ハイネを監視している。しっかりとハイネの袖を掴む手は、猛獣の鎖と言ったところか。
さすがは×××年の付き合い。
ハイネ・ローゼンクロイツの気の短さを、よく判っている。
エレベーターのボタンは一六連打が基本。
少女漫画を読むと、女々しいヒロインに虫酸が走る。
「さっさと押し倒しちまえよ」と毒突いたことは、一度や二度ではない。
チャキチャキのブロッケン子とは、恐らく自分のことを言うのだろう。
割と誰にでも噛み付くことから、地元では「ブロッケン南小のバラクーダ」と呼ばれていた。なだらかな体型のせいで、泳ぐのが超速かったことは関係ない。絶対にない。
「それで、えっと、俺、トイレに……」
結局、一時間粘っても、安藤からこれと言った情報は得られなかった。
これ以上、話を聞く意味はあるのか?
ハイネはディゲルと視線を重ね、無言の協議を始める。
二人の見解は、ノーで一致した。
混乱した様子を見る限り、安藤は何らかの事件に巻き込まれたに過ぎない。怪物を操っていたどころか、自分の意思で体内に宿していたわけでもないだろう。
このまま粘ったところで、真相究明の糸口が得られるとは思えない。よしんば情報を得られたとしても、記憶が混濁している以上、信頼性には疑問が残る。
「続きは後日にしましょうか」
話を切り上げ、ハイネは安藤に一礼する。
それからベッドの側を離れ、薬の置かれた棚に歩み寄った。
引き出しからシップを取り、腿の青アザに貼る。
途端に爽快な香りが漂いだし、苛立ちを和らげていく。
「……その短気さはどうにかならないのか。市井の〈詐術師〉が見たら、理想と現実の違いにショック死するぞ」
ディゲルはハイネの横に並び、嘆かわしそうに湿布を見つめる。
「と言うか、あなたは本当にあの〈荊姫〉なのか? 時折、本気で疑いたくなる」
「ディゲルさんは山の手出身だから、悠長でいられるんです。〈ブロッケン〉に気の長い住民なんていません。譲り合いの精神なんか掲げてたら、買い物かごの特売品まで奪われるんですから」
「……まったく、男の反応を気にして、弱々しく俯いていたお嬢ちゃんとは思えんよ」
お・と・こ――。
その瞬間、胸が軋み、拒絶反応を起こしたように身体が震える。
すかさず頭に浮かんだのは、この数時間、見て見ぬフリを続けていた顔だった。
駄菓子屋のベンチに座る彼は、弟のように人懐っこく、天真爛漫に笑っている。
「……半平さん」
誰にも聞こえないように呟き、ハイネはポケットに手を入れた。
電源の切られたスマホを出し、黒く染まった液晶と見つめ合う。
幽かに映る鏡像は、力なく目を伏せていた。
絵に描いたような被害者ヅラだが、全責任はこの女にある。
今後、彼に無視され続けても、文句を言うことは出来ない。
ずっと本当のことを隠して……いや、彼を騙し続けていたのだから。
勿論、罪悪感を抱かなかったわけがない。
半平の笑みが明るいだけ、後ろめたさは濃くなっていった。
半平に優しくされるだけ、声は大きくなっていった。
全てを明かせと、自分を責め立てる声は。
それでも、ハイネは真実を口に出さなかった。
話さなければいけない状態に陥らなければ、未来永劫、口を閉ざしていたはずだ。
争いを呼ぶおそれがある以上、〈詐術師〉の存在は隠さなければならない。一個人の後ろめたさを消すためだけに、ほいほい口にしていい話ではない。
そう、大義があるだけの言いわけ。
本音はただ、彼と離れたくなかっただけ。
人間ではない。しかも、常軌を逸した力を持っている――。
本当のことを告げれば、半平は恐怖に顔を引きつらせるかも知れない。
自分の前から走り去っていく彼を想像すると、恐ろしくて仕方なかった。
実際、今まで真実を告げた相手の中には、ハイネから離れていった人も少なくない。むしろ告白する前と、同様の距離を保ってくれる人のほうが珍しい。
無論、半平は肌の色や国籍で、扱いを変える人ではない。
だがハイネと彼との違いは、多くの人を差別に走らせる理由より更に大きい。
いかに懐の深い半平でも、受け入れてくれるとは言い切れなかった。
笑顔を共有した誰かに去られると、ハイネの胸は暗く寂しくなる。
最初から星のない夜空より、星の見えなくなった夜空のほうが物悲しく見える。同様に親しくなった人が去った後に広がる暗闇は、最初から孤独だった場合より深く寒々しい。
誰かに遠ざかられることを考えただけで、ハイネの身体は無限に冷たくなっていく。恐怖に耐えきれなくなった心が想像を打ち切るのに、時間は掛からない。
人は誰しも、無二の存在だ。
半平との時間は、半平としか過ごせない。
彼が去った後に、似た雰囲気の人と巡り逢うことはあるだろう。
だが、それは別人だ。
無理に彼の代わりにしようとしても、微妙に、そして決定的に違う仕草や会話が目に付く。なまじ似通った空気は、二度と取り戻せない日々に思いを募らせていくだろう。




