①ザッハトルテとデストラーデは無関係
今回は有名なお菓子についての蘊蓄を少々。
あと、柴又で発掘された不思議な埴輪のことも紹介しています。
「こっちだ、早く来い」
ディゲルは「関係者以外立ち入り禁止」の立て札を蹴倒し、職員用の通路に進む。
半平は元通り立て札を起こし、彼女の後を追った。
「お待たせしました」
備品置き場、事務室と通り過ぎたところで、ハイネが追い付く。
同時に重厚な扉の前で、ディゲルの足が止まった。
黄金色に輝く表札には、「館長室」と彫り込まれている。
「狭いところだが、まあ君には充分だろう」
不遜に言い放ち、ディゲルは半平を館長室に招き入れた。
室内に入った瞬間、半平は我が目を疑う。
部屋の真ん中に、タワー状の噴水が置かれている。
大きさは、ウェディングケーキほどだろうか。
室内に噴水と言うだけでも仰天ものだが、もっと恐ろしいことがある。
噴き出す液体が茶色く、部屋中に甘い香りを漂わせている点だ。
そう、あれは水ではない。
チョコレートだ。
「何だ、目を丸くして。そんなにチョコレートファウンテンが珍しいのか?」
ディゲルは噴水の傍らからマグカップを取り、チョコを掬う。
「ちょ、ちょこれーとふぁうんてん?」
「チョコレートフォンデュに使う器具さ。まあ、私は直接呑むほうがお気に入りだがな」
ディゲルは腰に手を当て、マグカップの中身を一気に飲み干す。
「うげ……、見てるだけで糖尿になりそう」
「ご心配なく。ここ数百年、健康診断に引っ掛かったことは一度もない」
「数百年、って……アメリカンジョーク?」
「お生憎様、私はオーストリア出身だ。そんなことより、さっさと座りたまえ」
ディゲルは唇のチョコを拭い、応接セットのソファを指す。
軽く頷き、半平は本革のそれに腰を下ろした。
メガトン級の異物を除けば、室内の様子は一般的な重役室と変わらない。
アンディ・ウォーホルっぽい絵画に、毛足の長い絨毯。
ガラスのテーブルには、小紋のクロスが敷かれている。
江戸切り子の一輪挿しには、白い薔薇。
確かハイネが好きな花で、「氷山」と言ったはずだ。その名の通り、曇り一つない花びらは、涼やかな空気を漂わせている。
アンティーク調の机には、帽子を被ったような埴輪が置かれていた。
何とも朴訥な表情には、哀愁を感じずにはいられない。今にも、夕焼けの河川敷に去っていきそうだ。
彼の名前は、人呼んで「寅さん埴輪」。
あの柴又にある八幡神社古墳で、第五次調査が行われた際に発見された遺物だ。
恐らく、ここにあるのはレプリカだろう。
一階の受付でも、同じものが売られていたはずだ。
「さて、客人を招いたのに、茶一つ出さないと言うのも不作法な話だ」
気取ったように言い、ディゲルは一度部屋を出る。
数分後、部屋に戻ってくると、彼女はトレーをテーブルに置いた。
紅茶の注がれたティーカップは、芳しく湯気を漂わせている。
一方、緑の皿には、やたらつやつやしたチョコケーキが乗っていた。
「ウィーンの老舗、『デメル』のザッハトルテだ。口に合うかどうかは知らん。合わなければ合わせろ」
「ざ、ざっはとるて……?」
またも滑舌を怪しくし、半平はおずおずと口を開く。
「デストラーデの仲間?」
「……オーストリアの菓子だ。これでも世間では、『チョコの王様』と呼ばれているのだがな」
ディゲルは額を押さえ、半平の正面に腰を下ろす。
脱力するあまり、立っていられなくなったらしい。
「『チョコの王様』ねえ。普通のチョコケーキと何か違うんスか?」
「ああ、チョコの入ったスポンジに、アプリコット――アンズのジャムを挟んである。そこから更に、チョコでコーティングしてあるのが特徴だな」
「チョコをチョコでコーティングっスか。森永乳業の『チェリオ』みたい」
「確かに『チェリオ』はうまいが……、どうも釈然とせんな」
奇っ怪に眉を波打たせ、ディゲルは小さなフォークを取る。
「考案したのはフランツ・ザッハと言う男でな、ウィーンの菓子職人だ」
「ああ、『ザッハ』さんの作った『トルテ』だから、『ザッハトルテ』ってわけ」
「そう、直訳するなら『ザッハの焼き菓子』と言ったところだ」
一般的なザッハトルテは、スポンジの間にもジャムが塗ってある。
だがデメルのそれは、表面にしかジャムを塗っていないらしい。
またデメルのザッハトルテに使われるチョコは、大理石のテーブルで練りに練ってある。これにより粒子の丸くなったチョコは、とろり蕩ける舌触りと、心地よい食感を併せ持つのだと言う。
「数々の工夫、そして厳選した素材から醸し出される無二の味は、二〇〇年近くに渡って世界を魅了している。心して味わえよ、少年」
厳かに命じ、ディゲルは海原雄山のように腕を組む。
もう少ししたら、冷やし中華を酷評するかも知れない。
「このケーキが、世界レベルの美味ねえ……」
少し威圧感を覚えながら、半平はザッハトルテを口にしてみる。
アンズの酸っぱさとチョコの甘さが混じり合い、複雑な味を広げていく――。
確かに美味だが、半平的には五円チョコのほうが好きな気もする。
甘味=シベリアな葛飾区民(多少誇張あり)には、味が難しすぎるのだろう。
足立、葛飾、荒川区以外に住む生活に余裕のある皆さんのために、一応説明しておこう。
「シベリア」とはカステラ生地の間に、ようかんを挟んだスイーツ(笑)だ。
何でも進駐軍が来る前から愛されていたそうで、今でも葛飾区のコンビニやスーパーでは普通に売られている。
――のだが、全国放送のテレビでは、「幻のお菓子」扱いされていた。
「どうだ? 堪らん味だろう?」
「いやまあ、コンビニのケーキとかよりは、全然うまいっスけど……」
思わず返事を濁らせ、半平は肩を揺り動かす。
本来、ティータイムとは心身をリラックスさせるためのものだ。
しかし、お上品にフォークを使っていると、どんどん息苦しさがこみ上げてくる。自然と狭まる肩は、七五三でおめかしさせられた時のようだ。
「あーもう! 面倒くせぇ!」
堪らず吠え、半平はフォークを投げ捨てた。
続けてザッハトルテを鷲掴みにし、蒸かしイモのように口へねじ込む。もしゃもしゃと咀嚼を始めると、さっきまでの息苦しさが嘘のように消えていく。
「か、格調高いザッハトルテを……。デメル二〇〇年の歴史を……」
ディゲルは軽く泡を吹き、ハムスターのように頬を膨らませた半平を凝視する。
真ん丸く見開いた目は、明らかに疑っていた。
こいつ、ネアンデルタール人じゃね?
「……もういい。蛮族……ゴホン、葛飾区民に洋菓子を理解させようとした私がバカだった」
ふてくされたように吐き捨て、ディゲルは深くソファにもたれ掛かる。
「どーせ君は知らんだろうが、葛飾はウィーンのフロリズドルフ区と友好都市の関係にあってね。私たちがこの目目森博物館を拠点に選んだのも、色々と便宜を図って頂けるからだ。まあ、単純に都心より地価が安かったのもあるが」
ディゲルはフォークを使い、ザッハトルテの先端を切り取る。
「理屈は判るけど、何も区民の憩いの場を選ばなくても」
「では、森の中の洋館でも選べと? それでは宣言しているようなものだ。『ここが秘密基地です!』とな」
僅かに語気を強め、ディゲルはザッハトルテの切れ端を口へ運んだ。
途端に吊り上がっていた目が、ついでに頬が垂れ下がり、だらけきった笑みに変わっていく。簡単に溶けてしまうチョコだが、自身も人間の顔を蕩けさせる力があるのだろうか。
「全く、この味が判らんとはな! つくづく葛飾区民は哀れだ!」
ディゲルは頬に手を当て、落ちそうな頬を支える。
一分ぶりに彼女の口から解放されたフォークは、ピッカピッカに輝いていた。
たぶん、舌に舐め尽くされたのだろう。
態度と言い、口調と言い、威圧的なディゲルだが、意外と中身は普通の女の子なのかも知れない。現に世界中の幸せを独占したような表情は、パフェに舌鼓を打つJKにそっくりだ。




