④アンバランスな行為
ぐらぁ!
じろじろ見るんじゃねぇ! とばかりに吠え、怪物は壁を殴る。
コンクリの砕ける音を聞いた半平は、ウサギのように身を縮めた。
実際に破片を浴びたハイネは、億劫そうに首を傾げた。
次々と小石大の残像が飛来し、彼女の頬を掠めていく。
寸前に頭を動かしていなければ、顔面を乱打されていただろう。
「半平さん、走れますか?」
ハイネは正面の怪物を睨み付けたまま、背後の半平に訊く。
声の出せない半平は、迷わず首を横に振った。
情けないが、腰にも膝にも力が入らない。
と言うか、不用意に力もうものなら、膀胱の中身を垂れ流してしまう。
命には代えられないとは言え、ズボンをびしょ濡れにするのには抵抗がある。
世間体をかなぐり捨てたとしても、今度は「荷物」の存在が問題になる。
腕を折られて気絶した茶髪に、大の字の学ラン。
二人並んで白目を剥いている様子は、足手まといを通り越し、いっそ清々しい。
産卵を終えたサケは、力を使い果たし、息絶えてしまう。
同様に怪物を生み出した学ランも、精根尽き果ててしまったのだろうか。
何にせよ、大の男二人抱えて、逃げ切れるわけがない。
運よく怪物が鈍足だったとしても、光弾と言う飛び道具からは逃れられない。
いや、本当に無理なのだろうか?
何しろ小さな身体で、お年寄りをおんぶしようとするハイネだ。
男の自分が出来ないと答えたところで、諦めるとは思えない。
例え引きずってでも、学ランと茶髪を連れて行こうとするだろう。
格好の的に光弾が迫ろうとも、彼女が二人を放り出すことはない。
半平の返答に左右されるのは、学ランや茶髪の命だけではない。「出来る」と口にするか、「出来ない」と口にするかには、ハイネの命も懸かっている。
人並みの正義感があるなら、迷うことなく学ランと茶髪を背負う場面だ。
荷物がどうのとそれっぽい屁理屈を捏ねてはいるが、本音は我が身が可愛いだけ。
冷静に考えてみれば、学ランが二度と怪物を吐かないと言う保証はない。仰向けになった姿こそいかにも無害そうだが、正体はピンのぐらついた手榴弾だ。
見境なく光弾を吐いたところを見ると、怪物が学ランを親と思っていないのは間違いない。だが彼の身が安全ではないと判っても、救いの手を伸ばす気にはなれない。
「……逃げるのは無理か」
ふと耳に届いたのは、しわがれた呟きだった。
学ランと茶髪が気絶し、半平も口を開いていない以上、ハイネの声なのは疑いようもない。しかし半平が真っ先に目を向けたのは、人語を理解するにしては野性的な怪物だった。
普段、ハイネの口から奏でられるソプラノと、猜疑心の強い老婆のような低音。
二つが同一人物の声だとは、到底信じられない。
今までは異性相手に、声を作っていたのだろうか。
「半平さんは居合わせただけですね? 怪物さんに攻撃を加えたりはしていませんね?」
ハイネは半平をチラ見し、抑揚のない声で問い掛ける。
無感情と言うか、どこか事務的な横顔は、静かな威圧感を漂わせていた。
半平は戸惑いを感じながら、最初の質問には縦に、二度目の質問には横に首を振る。
「……無差別か。放っておけば、被害が広がる」
自分に言い聞かせるように頷き、ハイネは一歩前に出る。
物々しい雰囲気とは裏腹、始まったのは「むすんでひらいて」だった。
彼女の手は、何も掴まない。
彼女の手は、何も放たない。
ただただ足踏みするように、胸の前で開いたり閉じたりしている。
彼女が拳を握る回数に比例し、指の軋む音が大きくなっていく。
半平の見立てが確かなら、彼女は苛立っている。
牛歩戦術的に手を開け閉めするばかりで、行動を取らない自分に。
半平の知る限り、ハイネは行動を恐れるタイプではない。
必要なら自分が傷付くことも恐れずに、最善の手段を採る。
現に先ほどもキレられる危険を冒し、学校へ行くように促した。
そんな彼女が躊躇う行動とは、一体何なのか?
まさか意を決し、変身ポーズを取った途端、怪物も真っ青な改造人間に変身する? 馬鹿な。そんな子供向け番組のような話、現実に起こるわけがない。
推論とも呼べない妄想を否定し、半平は自分を嗤う。
何しろ、死の恐怖を味わったばかりだ。錯乱するのも無理はない。
そう、醜悪な姿に変貌するハイネは、空想に過ぎないはずだ。
では、この胸騒ぎは何なのだろう。
確かに改造人間など、子供向け番組にしか存在しない。
だが目の前にいる怪物だって、本来なら日曜朝八時にしか登場しないはずの代物だ。
常識から掛け離れているからと言って、彼女が変貌しないとは言い切れない。
言い知れない不安に駆られ、半平は彼女の背中に手を伸ばす。
その矢先、ハイネは観念したように息を吐き、胸の前の手を力なく垂らした。
「半平さん……」
ハイネは振り返り、半平と視線を重ねる。
半平の瞳に映ったのは、薄く浮かせたえくぼと、緩やかに上がった口角。
海外に出掛ける理由を追及される度、はぐらかすように作った笑顔だ。
ハイネの表情は相変わらず完璧で、どんな国籍の人が見ても笑っていると思うだろう。
だが半平の目に映る彼女は酷く辛そうで、胸を締め付ける。
細めた瞳に涙を溜めていても、不自然には思わなかっただろう。
「ごめんなさい」
突然謝り、ハイネは頭を下げる。
途端に彼女の目尻が震えだし、完璧な笑みが僅かに歪んだ。
今にも呻きだしそうな唇を噛み、ハイネは半平に背を向ける。
前を向く寸前まで半平を追う眼差しは、明らかに別れを惜しんでいた。
ハイネを失いたくないなら、半平は訊かなければならない。
なぜ謝るのか?
ハイネが頭を下げた理由は、正直、見当も付かない。
しかし、これだけははっきりと言える。
あのハイネが、許せないようなことをしていたはずがない。
本人が深刻に考えているだけで、笑い飛ばせないことではないはずだ。
そして自分が許せば、ハイネの心は軽くなる。
そう、半平は理解していた。
だがハイネの背中は城壁のように拒絶的で、許しの言葉すら望んでいない気がした。
いや、それは言いわけだ。
城壁のような背中を突き付けられている内に、半平は失ってしまったのだ。
笑い飛ばせると言う自信を。
臆病者の半平を尻目に、ハイネの手がポケットに踏み込む。
爆弾を扱うように震える指は、彼女の本心を物語っていた。
出来ることなら、すぐにでも逃げ出してしまいたい。
「ぐっ……」
やけっぱちに息み、ハイネは目を閉じる。
瞬間、ポケットから手が飛び出し、安っぽい光が瞬いた。
強く畳まれ、汗ばんだ指は、リモコン大の卒塔婆を抱えていた。
「卒塔婆」とは言っても、卒塔婆らしいのはネクタイっぽい形だけ。色は純白、質感はプラスチックで、肝心の梵字も記されていない。その代わり、お葬式の花輪のように無数の髑髏があしらわれている。
一番大きな髑髏は、ヨーヨーほどもあるだろうか。
不気味さだけでも注目ものだが、更に気になることが二つある。
第一に、なぜ黒と白の水引を、口ひげのように生やしているのか。
第二に、どんな目的があって、消えた提灯を咥えているのか。
大切だからか、危険物だからか、ハイネは両手で卒塔婆を握り締めている。
しかし、どんなに目を凝らしても、半平には日曜朝八時的なおもちゃにしか見えない。
卒塔婆と言うモチーフこそ独特だが、威圧感や神秘性は皆無だ。
と言うか、ワゴンセールに山積みされている感じしかない。
仮にお得意のメイド・イン・バンダイだとして、それが葛藤の末に引っ張り出す代物なのか。表面上は怪物に動じなかったハイネだが、本当は混乱しているのかも知れない。
果たして半平の懸念は当たっていたのか、パニックに陥ったハイネは卒塔婆の先端を首に当てる。続いて喉を掻き切るように卒塔婆を動かし、顎の下に横線を引いた。
〝墓怨・墓怨・恨墓怨〟
まず鳴り始めたのは、季節外れの盆踊り。
次いでトンネル内に木霊したのは、読経だった。
どうやら、卒塔婆には音声を発する機能があるらしい。
最近のおもちゃなら、珍しい話ではない。
やや風変わりな電子音声も、近頃の特撮では定番になっていると聞く。
そう、この時点まで、卒塔婆がおもちゃであることを否定する要素はなかった。
だが次の瞬間、半平は疑うことになる。
「卒塔婆=玩具」と言う絶対的な仮定を。
何より、自分の目を。
ハイネが首に引いた横線から桜色の光が滴り、血のように固まっていく。
瞬く間に巨大なかさぶたが完成し、彼女の首を包み込んだ。
見た目同様、脆いそれは、次々と桜色の欠片を降り注がせていく。たちまち全ての欠片が剥がれ落ちると、人骨を組み合わせたような首輪が姿を現した。




