③暗黒の光弾
しゅぅぅ……。
フライパンに水を垂らしたような音を発しながら、件の球体が輝きを強めていく。すぐさま大きく裂けた口角からも光が溢れ出し、半平の全身を突き刺した。体表をチリチリと焼かれる痛みは、日焼けしすぎた時に他ならない。
痛み。
そう、痛み。
唾液の生温かさや、鼓膜の痺れとはわけが違う。
死に直結する感覚だ。
静かにしかし確実に恐怖がこみ上げ、半平の心を侵食する。
ヘラヘラとしていた顔は次第に強張り、覗かせていた歯をしまっていった。
膨大な、それこそ失禁を疑わせる量の汗が噴き出し、全身を濡らす。
怪物の姿が二重にも三重にも見えるのは、眼球が震えているせいだろう。
何とか乾いた唇を舐め、半平は自問する。
このまま行動しなければ?
明日、心臓が動いている確率はゼロだ。
手早く学ランと茶髪の襟首を掴み、半平はトンネルの出口へ走る。
少なくとも、半平は走り出したつもりだった。
だが、一向に出口は近付いて来ない。
背後から照らす光も、全く離れていかない。
何やってんだ! 足の遅いほうじゃねーだろ!
自分自身を怒鳴り付け、半平は下半身に目を遣る。
無様に竦んだ足が、膝を震わせていた。
たったの一〇歩だ! 頑張って走れ!
半平は足を睨み付け、恫喝するように鼓舞する。
だが、臆病な足は一歩も動かない。
脳と足は本当に繋がっているのだろうか? よしんば地続きだとしても、知らない間に分断されてしまったのではないだろうか? マネキン人形に「走れ!」と命じたほうが、まだ動き出しそうな気がする。
ぐらぁ……。
もたつく半平を悠々見定め、怪物は口角を吊り上げる。
刹那、奴は絶叫し、クシャミのように大きく頭を振った。
ぐらあ!
聴覚が麻痺した途端、怪物の口から噴き出す光弾。
たちまち閃光がトンネル内を駆け巡り、景色を白く塗る。轟然と吠える突風は全身を揉みしだき、半平の足を僅かに浮かせた。
堪らず仰け反ると、目の前の光弾がスローモーションになっていく。
死を迎える直前には、本当に時間の流れが遅くなるらしい。
何らかの対処を求めているのかも知れないが、無理だ。
何せ手も足も動かない。
たぶん、加速したのは意識だけで、身体の動くスピードには変化がないのだろう。そのくせ、感覚だけは鋭敏になり、肉体の変化を詳細に教える。
冷や汗に塗れていた肌が速乾し、干魃に見舞われた大地のようにひび割れていく。見る見る体毛が焦げ、どす黒い煙が燻りだす。
嫌な臭いを嗅ぎ取った矢先、身体の中で一番出っ張った鼻が光弾に触れる。瞬間的に炭化した皮膚は、黒い点として視界の中に舞い散った。
痛さはない。
熱い。
ともかく熱い。
充血した時の何倍、いや何百倍も目が疼き、視界の底に涙を溜める。
少しずつ眼鏡が融けだし、セルフレームだった液体が滴り落ちていく。
瞬間、何者かが半平の背中を引っ張った。
半平は仰向けにひっくり返り、強か尻を打ち付ける。
直後、顔面スレスレを光弾が通り過ぎた。
たちまちトンネルと言う大筒から光弾が飛び出し、塀に突っ込む。コンクリ製のブロックはバターのように融解し、業火と黒煙を噴き上げた。
一瞬、空が紅蓮に染まり、爆発音が大地を揺さ振る。
途端に全ての音が消え、耳鳴りが半平の世界に木霊した。
許容量を超えた大音量が、聴覚を麻痺させたらしい。
震動が収まるにつれて、時間の流れが元に戻っていく――。
いつの間にか止めていた息を吐くと、周囲の様子が視界に入った。
高熱の光弾に通り抜けられたトンネルは、崩落事故の様相を呈していた。
四方八方に壁の破片が転がり、熱気と煙を棚引かせている。
電灯のあった場所には、被覆を焼き払われ、丸坊主になった導線。シャワーのように降り注ぐ火花は、周囲を青白く照らしている。
惨憺たる有様は、トンネルの外も一緒だった。
低空を駆け抜けた光弾は、道路にどす黒い焦げ跡を刻んでいる。
進路上にあった街灯はもれなく融け、くの字に折れ曲がっていた。
光弾の直撃を受けた塀には、トラックが突っ込んだような穴。
その先に広がる空き地は、猛火に包み込まれている。
際限なく噴き出すススは、月の表面を真っ黒く塗っていた。
金属製の街灯を融かし、コンクリの塀を砕く火球――。
肉と骨でしかない自分が喰らっていたら、どうなっていた?
考えた途端、半平の脳内は真っ白く染まる。
そう言えば、自分はなぜここにいるのだろう?
そもそも、自分は誰なのか?
何もかも、曖昧にしか答えられない。
「半平さん、大丈夫ですか!?」
久方ぶりに聞こえた音は、酷く低く、同時にくぐもっていた。耳がおかしいのか、精神的な問題なのかは判らないが、まるで再生速度を下げたようだ。
「しっかりして下さい、半平さん!」
もう一度呼び掛け、滅茶苦茶に混じり合った目、鼻、口が顔を覗き込む。
声を出した以上、誰かの顔なのは間違いない。
だが目まぐるしく渦巻く視界に映るそれは、下手な福笑い以外の何でもない。
声を張っても張っても返事をもらえない福笑いは、大きく息を吸い込む。
「半平さん!」
福笑いの一喝が耳を貫き、眩暈を止める。
途端、福笑いは険しい表情の少女に変わり、少年の肩を揺さ振った。
荒っぽく揺すられた少年は、ようやく思い出す。
自分の名前は沼津半平だ。
「半平さん、ケガはありませんか?」
少女は、いやハイネは問い掛け、半平の身体を見回す。
どうしてここに? あのセーラー服の子は? 俺はどうなった?
正気を失っている間のブランクを取り戻すように、次から次へと疑問が溢れる。
にもかかわらず、口はパクパクパクパク金魚の真似をするだけ。
殺されかけたショックで、思うように身体を動かせない。
結局、出来たのは、よろよろと頷くことだけだった。
無事を確認したハイネは、半平と怪物の間に立つ。
まさか怪物から庇おうとしているのだろうか。
正直、半平はもうまともに怪物を見られない。「眺める」と言う行為を選択肢に入れただけで、獅子舞のように歯が鳴ってしまう。
相手は煮え立つ光弾を吐き、塀を粉砕する怪物だ。
ダチョウのような奇声を上げ、因縁を付けるだけのチンピラとはわけが違う。
目を合わせられなかったからと言って、勇気がないと嗤う人はいない。誰もが物陰に身を潜め、息を殺し、怪物がどこかに行くのを待つはずだ。
そう、半平の価値観ではそのはずだ。
しかし、ハイネは平然と怪物を眺めている。
いやむしろ、彼女の目は普段よりも冷めている。
なぜ悲鳴を上げない? 逃げ出さない? あれはライオンか? クマか? いや、もっと顕著な死だ。ハイネにはきっと感情がない。いいや、血が通うだけの人形なのだ。
待てど暮らせど泣きべそ一つかかない彼女を眺めていると、半平の鼻にはシワが浮いていく。許されるなら彼女の目を鼻を捏ね、泣き顔に作り替えてしまいたい。
この感情は苛立たしさ、あるいは憎たらしさだろうか。
落ち着き払ったハイネを見ている内、過剰に怯える自分がバカにされたように思えた? いや子供じみた沼津半平は、ハイネが思うように動かないのが面白くないのかも知れない。




