②安寧の功罪
ついにサウマティクティスの正体が明らかになります。
深海生物は面白いのですが、生態が判らないことも多いです。
Wikipediaにページがないこともしばしば。
今も後半の「箸休め」のために、参考資料と睨み合っています。
ぐらあ……?
学ランは特に暴れるでもなく、軽く肩を振る。
そう、軽く肩を振っただけ。
たったそれだけで半平は浮き上がり、激しく左右する。
七〇㌔以上ある身体が、洗濯機の中のTシャツ状態だ。
「やめろ! やめろって! 殺す気か!」
半平は何とか学ランにしがみつき、茶髪から引き剥がそうとする。
まばたきする度、瞼の裏に見えるのは、杉の大木。
異常な力に晒された身体が、筋肉の負担に見合う光景を思い描いているらしい。
「う……」
唐突に学ランが動きを止め、振り回していた石を落とす。
……説得が通じた?
半信半疑と言うには疑いの濃い期待を胸に、半平は学ランを覗き込む。
直後、再び学ランの眼球が輝き、半平の視界を黄緑に塗った。
「うう~、うう~」
目を光らせた学ランが、サイレンのような雄叫びを上げる。
半平の身体は全力疾走に次ぐ大捕物で、熱湯のように火照っていた。
噴き出す汗は全身を塗らし、顎から滴っていた。
だがその瞬間、汗腺と言う汗腺から氷水のような感覚が噴き出し、全身に悪寒が走る。たちまち身体中の熱が逃げ出し、代わりに鳥肌が広がっていった。
離れろ! 触れるな! 遠ざかれ!
脳内に絶叫が響き、半平に警告する。
刹那、半平は学ランを突き飛ばし、背後に飛び退いた。いや正確に言えば、自分の行動を把握した時には、もう学ランと距離を取っていた。
晴れて自由の身になった学ランは、よろよろと茶髪の上から降りる。
それから祈りでも捧げるつもりだろうか、突如、地面に膝を着いた。
がくっ! と学ランの頭が後ろに倒れ、後頭部が背中に着く。
すかさず学ランの眼球から光が伸び上がり、天井を照らした。
ごぼごぼ……。
学ランのうがい。
口の中で泡立っているのは、黄緑の粘液だ。
学ランの口から激しく飛沫が散り、同時に黄緑の涙が溢れる。
途端に強烈なアンモニア臭が漂いだし、半平の顔を歪ませた。
ハイネの側から駆け出した矢先に嗅いだのは、この臭いだったらしい。
急激に変化する状況は、半平に答えの出た解放感さえ味わわせない。
ぐらあ!
学ランの口から粘液が噴き上がり、カメレオンの舌のように伸びる。
瞬間、その先端が天井に引っ付き、学ランの身体が僅かに浮く。
ピンと伸びた粘液が、ワイヤーのように働いたのだろう。
にわかに妖しい風が吹き、吊るし切りのように――そう、アンコウのように吊られた学ランを左右に揺する。呼応して、ぐびぐびと学ランの喉が蠢き、天井に粘液を送り込んでいく。
コブ状に脈打つ粘液が、天井に水溜まりを広げていく。
毒々しく発光する液面は、いつの間にか熔岩のように泡立っていた。
何か、何かだ。
天井の右から左に達した水溜まりが、一転収縮し、そして形作っていく。
二本の手を。
二本の足を。
コウモリのように逆さなせいで判りにくいが、恐らく二㍍を超えている。
あれほどの大物が、今まで学ランの体内に収まっていたと言うのか。
ぐらあ……。
天井の「それ」が、大の字の茶髪、半平と顔を向けていく。
そうやって「品定め」を終えたそれは、機嫌よさげにほくそ笑んだ。
ぐらあ……。
半平の耳が確かなら、学ランが時々発していたのと同じ声だ。あれは当人の声ではなく、体内の「それ」の声が漏れ出ていたのかも知れない。
硬直する半平を余所に、学ランの口から伸びていた粘液がプツリと途切れる。
ぐらあっ!
待ってましたとばかりに吠え、「それ」は両足で天井を蹴った。
「それ」の身体になり損ねた粘液が、蹴り砕かれた天井が、霰のように降り注ぐ。同時に激しい縦揺れが靴底を突き上げ、棒立ちだった学ランを倒した。
すぐさま「それ」が地面に落ち、土煙が舞う。
矢継ぎ早に低く身構え、「それ」は半平に向けて頭を突き出した。
半液状だった「それ」の身体が、徐々に固まっていく。
サナギから孵ったチョウが、時間を掛けて翅を広げていくように。
黄緑だった「それ」が、鉛色に染まっていく。
羽化した時は生白いセミが、時間を掛け、世間の知る色に変わっていくように。
数分前まで水溜まりでしかなかった物体は、たった一分で醜悪な怪物と化した。
何とアンバランスな体型だろう。
頭はカバを凌駕する大きさ。
半平の見立て通りなら、スイカくらい楽々丸呑みするだろう。
にもかかわらず、胴体や四肢のサイズは人間と大差ない。老人のように曲がった腰はいかにも不安定で、軽く押した瞬間、仰向けに転がってしまいそうだ。
ゼラチン質の身体はウナギのように滑り、手足には水掻きが生えている。
扁平で細長い頭は、上下に噛み合わせた熊手とでも言ったところか。櫛状な上に内側へ曲がった牙が、ことさらその印象を強めている。
サウマティクティス。
怪物を一目見て以来、半平の脳裏に浮かぶもの。
水深一一〇〇㍍から、三二〇〇㍍付近までに棲息する深海魚だ。
サウマティクティスはタウマティクテュスとも呼ばれる魚で、体長は三〇㌢から四〇㌢程度。怪物の頭同様、扁平かつ細長い形をしていて、上顎は下顎より大きく突き出ている。
そして最大の特徴が、その上顎の内側に備わった発光器だ。
この発光器の放つ光は、彼等のエサとなる小魚を招き寄せる。しかも光に誘われた小魚は、自分から上顎の内側――つまりサウマティクティスの口の中に飛び込んでしまうらしい。
一度口の中に入ってしまったら、もう逃げられない。
内側に曲がった歯が、脱出しようとする獲物を阻む。
――と言われているが、真偽のほどは定かでない。
何しろサウマティクティスは、今までに数十匹しか見付かっていない魚だ。
その珍しさが災いし、生態を解明するだけの情報が集まっていないのだと言う。
ぐらあ!
まず咆哮が、続いて白く濁った唾液が溢れ出し、怪物の口から糸を引く。
半平の頬に飛来した涎は、生温かい。
大音量の咆哮に叩かれた鼓膜は、僅かに痺れている。
頬を抓る必要は、ない。
目の前の光景は、間違いなく現実だ。
今、半平の目と鼻の先には、鋭利な牙を生やした怪物がいる。
草食か肉食かは定かでないが、相手は二㍍を超す巨体だ。
少しじゃれつかれただけで、人間の身体などバラバラになるだろう。
そう、半平も危機的状況は理解している。
だが命を脅かされているはずの身体は、絶叫も号泣も披露しない。
それどころか、いや、あろうことか、薄ら笑いを浮かべている。
正直、自分が置かれている状況に、まるで現実感が持てない。平和な暮らしに慣れきった沼津半平は、無意識に盲信している。自分が死ぬはずない、と。
相手が現実離れしすぎた怪物だと言うことも、逃げようと思えない理由かも知れない。仮に目の前のそれがライオンやヒグマだったら、脇目も振らずに走り去っていただろう。
ぐらぁ!
薄ら笑いを見て、バカにされたと思ったのだろうか。
怪物は極限まで顎を開け、半平を威嚇する。
途端、ぽうっと周囲を照らす灯り。
怪物の上顎から拳大の球体が吊り下がり、虚ろな光を放っている。




