①暗中の攻防
街外れのトンネルは、密林のように薄暗かった。
肌寒い外気とは裏腹に、トンネルの中は生温かい。
淀んだ空気と言い、よくも悪くも風通しが悪いのだろう。
歳月を経た壁はくすみ、カビと排気ガスの混じった臭いを漂わせている。
天井の亀裂からは水滴が染み出し、壁際のコケを潤していた。
「うぼぉ!」
学ランの少年は鼻息を噴き出し、押し、押し、押しまくる。
茶髪の少年はなすすべもなく撥ね飛ばされ、壁に背中を打ち付けた。
曇った衝撃音が轟き、青白い電灯が明滅する。たちまち壁に留まっていたガが飛び立ち、茶髪の頭にリン粉をまぶした。
「放せよ!」
茶髪は駄々っ子のように腕を振り回し、学ランの顔面を殴り付けた。
くるみを割ったような音が鳴り、学ランの鼻が平らに潰れる。間髪入れず血が迸り、茶髪のワイシャツを真っ赤に染めた。
深手を負った学ランは、背中を丸め、のろのろと後ずさる。
程なく彼は跪き、鼻汁と混じった血で水溜まりを作った。
「お、お前ごときが俺に逆らうなんて、一〇〇万年早いんだよ!」
茶髪は学ランを見下ろし、引きつった笑みを浮かべる。
幼稚な言動は好きになれないが、勝ち誇るのも無理はない。
あの出血量、リング上なら確実にドクターストップだ。
想像を絶する激痛は、刻一刻と彼の意識を蝕んでいる。立ち上がるどころか、気を失わないようにするだけで手一杯だろう。
そう、常識に則るなら、学ランの口から苦悶の声以外が出ることはあり得ない。
だが彼は非常識で、発したのは不気味な笑みだった。
「けひ……ひひひ……」
学ランは壁に腹を押し当て、その場にもたれ掛かる。
ずる……ずるずる……。
血に染まった両手が壁を這い上がり、学ランを引っ張り起こしていく。
見る見る壁の中程まで血の手形が伸び、学ランの足が地面を踏む。
そう、立ち上がった。
担架で搬送されてもおかしくなかった重傷者が。
呆然とする茶髪を尻目に、学ランは薄ら笑いを浮かべている。
夥しい出血にもかかわらず、頭にも足にもふらついている様子はない。むしろ顔面を蒼白にした茶髪のほうが、足取りは怪しい。
ぐらあ……。
びちゃびちゃと鼻血の垂れる音に、学ランの唸り声が重なる。
腹に響く低音は、遠くから聞こえる噴火のようだ。
これが人間の声なのか?
訝しんでいる内に、学ランの眼球がカクカクと動く。
収縮した黒目はしばらく回転し、最後に茶髪を捉えた。
一瞬の一瞬、だっただろうか。
学ランの双眸が黄緑に輝き、茶髪の顔を照らす。
ネコ? トラ?
いや、ちょっと黒目が光ったのとはわけが違う。
眼球を蛍光ペンで塗り潰したように、瞳が丸ごと輝いていた。
「な、何なんだよ、何なんだよ、テメェ!」
今にも泣き出しそうに顔を歪め、茶髪は腰を引く。
学ランはダルそうに歩を進め、彼の胸ぐらを掴んだ。
ぐらあ……!
学ランが、筋肉より脂肪の多い学ランが、片手一本で茶髪を放り投げる。
瞬間、茶髪は高い放物線と化し、天井に頭をぶつけた。
細身とは言え、六〇㌔はありそうな男性が、完全に空き缶扱いだ。
頭を強打した茶髪は一瞬気を失い、だらんと手足を伸ばす。
直後、彼は背中から地面に墜落し、空気の抜けたボールのように低く弾んだ。
「がぁ……ぐぁ……」
血と胃液の混じった咳が連続し、茶髪の口を大きく広げる。苦し紛れにバタ付く足は、かかとの潰れた靴を空中に投げ出した。
ぐらあ……。
学ランは悶える茶髪を見定め、レンガ大の石を拾い上げる。
「や、やめ……」
茶髪は懇願し、涙と胃液でふやけた頬を震わせる。
激しく歪んだ顔を見れば、子供でも怯えていることが判るだろう。
だが学ランは大袈裟に首を傾げ、石を高々と振り上げる。
「あ……ああ……」
命乞いを却下された茶髪は、絶望に表情を凍り付かせる。
学ランはしばらく茶髪を見下ろし、惨めに横たわる姿を目に焼き付けた。
よほど茶髪に恨みがあるらしい。
ぐらあ……。
満足したのか、見飽きたのか、学ランは明後日の方向に顔を向ける。
同時に鋭く鼻息を噴き、茶髪の顔面に石を振り下ろした。
凶暴な一撃が茶髪の頭を叩き割り、鮮血が溢れ出る――。
今は想像に過ぎない光景も、一秒後には現実になっていただろう。
だが惨劇が現実になろうとした直前、半平のタックルが学ランを突き飛ばした。
刹那、学ランの手から石がすっぽ抜け、壁に飛ぶ。
偶発的な投石は青白い光に突撃し、電灯を粉々に砕いた。
無数の破片が飛び散り、仰向けの茶髪に降り注ぐ。
たちまち彼は顔を覆い、幼児のように悲鳴を上げた。
「……クソ」
タックルした拍子に転んだ半平は、そのまま大の字に寝そべる。
正直、あと一時間くらいは立ち上がりたくない。
茶髪と学ランの揉める声を聞き付けてから三分間、半平は影を引き離す気で走り続けた。
顔も背中も汗だくなのに、口の中はカラカラ。
干上がった喉には、鉄の味が広がっている。
息遣いは喘息の発作でも起こしたようで、吸っても吸っても肺が膨らまない。
ぐらあ……。
力なく俯せていた学ランが、ぴくっと背中を動かす。
途端、彼の手が地面を這い出し、電灯の破片ごと石を握り締めた。
じゃり、じゃり……と破片を握り潰す音が鳴り、学ランの手から血が滴る。
手の平に突き刺さった破片は、半平にある確信を抱かせた。
こいつはまともじゃない。
ぐらあ……。
身動きの取れない半平を嘲るように、学ランはのっそりと起き上がる。
そのまま四つん這いになると、低く素早く茶髪に飛び掛かった。
肥満体型の学ランが降り、茶髪の胸を押し潰す。
堪らず茶髪は目を見開き、ごふっと呻き声を漏らした。
茶髪に馬乗りになった学ランは、再び石を振り上げる。
そして息を詰まらせ、紅潮した茶髪の顔面を見定め、凶器を叩き付けた。
茶髪は咄嗟に両腕を交差させ、顔面を覆う。
間髪入れず、血塗れの石が彼の腕にめり込み、枯れ枝を折ったような音が鳴り響く。たちまち鮮血が舞い、槍状に折れた骨が茶髪の腕から突き出した。
「ぎ」と濁った息を吐き、茶髪が白目を剥く。
続けざま彼は四肢を伸ばし、僅かに浮かせていた頭を地面に落とした。
限界を超えた痛みが、意識を刈り取ってしまったのだろう。
無防備な獲物を見下ろし、学ランはにたあっと口角を吊り上げる。続けて頬に付いた返り血を舐めると、腕と衝突したことで少し欠けた石を握り締めた。
このまま誰も助けなければ、確実に茶髪の命は奪われる。
そして今、トンネルの中にいるのは、気絶した茶髪と加害者の学ラン、半平の三人だけだ。
有無を言わさず茶髪の命を委ねられた半平は、息を吸い、吸い、吸いまくる。
一気に跳ね起き、学ランに駆け寄る。
オーバーワークだ! 休ませろ!
機関銃のように鳴る心臓は、半平に労働環境の改善を求めている。
出来ることなら、すぐにでも要求に応じたい。何かの間違いでストライキなんか起こされた日には、沼津半平の操業が止まってしまう。
だが今は、人の命が懸かっている。
誰かを見殺しにしたら、結局、沼津半平を生かせなくなる。
休むだあ!? 今、お前がいなくなったらどうなるんだ!
ブラック企業の社長ばりに怒鳴り、半平は心臓を一喝する。
同時に凶行の現場へ駆け込み、学ランを羽交い締めにした。




