②食卓の真実
他の面子も、半平と同じ気持ちになったのだろうか。
数ヶ月ぶりに家族の揃った食卓には、溢れんばかりの会話が盛り付けられた。
笑顔の中心を飾るのは、本日の目玉の酸辣湯。
見慣れないスープをおっかなびっくり掬っていたのも、一口目まで。
豊かな味を確かめた後には、誰の箸も伸びていないのが珍しくなった。
昨日はしかめっ面でハムカツを食べていた父親も、今日は舌をひぃひぃさせている。それでもレンゲを動かす姿を見ていると、半平の胸にはある言葉が湧き上がる。頑張ってよかったな。
「うまっ! 君、ホントに外国人?」
下の姉を唸らせたのは、ハイネの作った肉じゃが。
芯まで火の通ったジャガイモは、甘栗のようにほくほく。
お腹に入れると、懐かしい温かさが広がる。
カレーの余り物とめんつゆを煮ただけで、なぜこうなるのか。
半平は割と本気で疑ってしまう。ハイネには魔法が使えるのではないか。
「まだ若いのに、どこで料理を憶えたの?」
「昔お世話になってた家の方が、料理の名人だったんです」
自然と場の主役になったハイネは、ハキハキと皆の質問に答えている。
気持ちいいのは、受け答えだけではない。
箸使いは日本人の姉たちより巧みで、ピンと伸びた背筋は女流棋士を彷彿とさせる。本当はどこかの国の王族で、厳しくマナーを仕込まれているのかも知れない。
気品溢れるハイネ姫を、半平の母親はえらく気に入った。
「お家はどこにあるの? ご両親は何をなさってる方?」
根掘り葉掘り彼女の家庭環境を詮索し、洗脳するように息子のいいところを繰り返す。挙げ句には幼稚園の頃の息子が、女装させられている写真まで引っ張り出してきた。
「ウボォアー!」
ハンマー投げっぽい奇声を発し、半平はアルバムごと写真を引ったくる。続けて窓を開け放ち、遠いお空にアルバムを放り投げた。真っ黒な歴史なんて、お星さまの向こうに不法投棄だ。
今でこそサル顔の半平だが、子供の頃は家族一の女顔で、よく姉たちのオモチャにされた。
スカートやリボンを強要されるのは、日常茶飯事。
抵抗しようものなら、手足を押さえ付けられ、服を剥ぎ取られた。
そういう幼児期に負ったトラウマも、女子と友達以上になれない理由なのかも知れない。と言うか、同じ体験をしたアメリカの人は、猟奇殺人犯になっていた。
「半平ちゃんをよろしくお願いします!」
最後に強く訴え掛け、母親はハイネの手を握る。
上の姉を嫁に出す時にも、ここまでテンプレな発言はしなかった。
「はい!」
力強く答え、ハイネは顎を沈める。
「これで思い残すことはないわ……」
神妙にほざきながら、母親は涙を拭う。喜びに水を差すのも野暮だが、ハイネちゃんは絶対「よろしく」の意味を判っていない。
結局、何かと騒がしい夕飯は、三時間近くも続いた。
ふと眺めてみると、時計の針は九時を回っている。
幼い甥っ子が、ソファでうたた寝しているわけだ。
「そろそろ片付けちゃいましょうか」
食器と言う食器が空っぽになったのを確認し、ハイネは席を立つ。
半平はすかさず腰を上げ、ハイネの荷物を取った。
「もう遅いし、ハイネは帰りなよ。俺、送ってくから」
「でも、こんなにご馳走になったのに……」
「知らねーかもだけど、日本じゃお客さんに後片付けなんかさせねーの」
半平はハイネの背中を押し、玄関に向かう。
律儀な彼女のことだ。
これくらい強引にしないと、言うことを聞いてくれないだろう。
「今日は帰って来なくていいぞ~」
ドアを開けた半平を、上の姉が茶化す。
「……今時、あんな完成度の高い肉じゃがを作れる娘はいねぇ。草むらにでも引っ張り込んで、とっとと既成事実を作っちまえ」
悪代官のような顔で耳打ちしたのは、下の姉。
レトルトのコロッケさえ消し炭にする女だ。
「いいか、ブラの外し方はだなぁ……」
下の姉は身振り手振りも交え、弟によからぬ知識を伝授しようとする。
「いってきます!」
大声で生々しい講義を掻き消し、半平は家の外に飛び出した。
人気のない夜道は、想像以上に静かだった。
幽かに耳鳴りがするのは、今の今まで騒々しい家にいたせいだろうか。照らす相手のいない街灯はどこか寂しげで、華やかな光も空しく見える。
乾いた風には、冬の寒さがしつこく残っていた。
火照っていた身体はすぐに冷め、ポケットに手を逃げ込ませる。
ここは本当に、日中汗ばまされた場所なのだろうか。あの時は重い買い物袋を提げていたとは言え、ちょっと信じられない。
「楽しいご家族ですね」
ハイネが切り出したのは、十字路を過ぎようとした時だった。
「でも、賑やかさならウチも負けませんよお! ちゃぶ台ひっくり返すわ、一升瓶は宙を舞うわ、もう動物園のほうがお行儀いいくらいなんですから!」
ハイネは白く鼻息を噴き出し、寒さで赤らんだ顔をもっと紅潮させる。
「……穏やか、ね」
思わず苦笑し、半平は頭を掻く。
心優しいハイネに現実を伝えれば、間違いなく表情を曇らせてしまう。楽しそうにしている彼女に冷や水を浴びせるのは、気分が重い。
「普段はお通夜みてーだよ」
出来るだけハイネを落胆させないように、半平は努めて軽い口調で告げる。
夕飯時の食卓に響くのは、今日の出来事を伝えるニュース番組だけ。
父親は夕刊を黙読し、母親はテレビ画面のイケメンキャスターと見つめ合っている。下の姉は元々、バイトで帰りが遅かったが、最近は合コンのついでに外で食べることが多くなった。
今日珍しく早く帰って来たのは、弟が女子を連れ込んだためだろう。
何せ、奴は根っからの野次馬だ。今回のような歴史的事件に立ち会うためなら、宗谷岬からでも飛んで来る。
「親父なんか、いっつもこんな顔」
半平は戯けた口調で告げ、便秘のゴリラのように顔を顰める。
「高校に入り直せ、じゃなきゃハロワ行け、資格の一つも取れ――ニートには耳の痛い言葉でしょ? 俺、何も言い返せなくなっちゃってさ、会話のキャッチボールが途絶えちゃうわけ」
「そうなんですか……」
小声で呟くと、ハイネは力なく俯いた。
なぜ彼女は、自分のことのように悲しんでくれるのか。
勿論、感激してしまうが、それ以上に胸が痛い。自分がこんなでなければ、彼女が笑顔を失うことはなかっただろう。
そう、皆の表情を曇らせているのは、偏に沼津半平だ。
理由も告げずに高校を中退した上、何かに打ち込み始めるわけでもない。
道の掃除や家事の真似事で、いたずらに時間を浪費している。
そんな夢も希望もないお荷物を抱えて、屈託なく笑えるはずがない。今日、母親がはしゃいでいたのは、普段、鬱屈としている反動だったのかも知れない。
やはり、潔く死ぬのが正解だったのだろうか。
二人の姉だけなら、両親が思い悩むことはない。
下の姉は現役で大学に合格し、上の姉は早々に孫の顔を見せてくれた。
心配事と言えば、下の姉の帰りがどんどん遅くなることくらい。それも深刻になっているわけではなく、あの年頃なら仕方ないと苦笑している。




