①光明
第三章はこの一話だけです。
次回はまたまた番外編。
赤、青の次は、高貴なあの色に迫ります。
公園から見上げる夜空は、暗雲に包み込まれていた。
古びた公衆トイレには、アンモニアの臭いが立ちこめている。黄ばんだ小便器には吸い殻が詰まり、壁には固くなったガムがへばり付いていた。
用具入れはだらしなく開き、モップやバケツを散乱させている。
大きく亀裂の入った窓は、セロハンテープで補修されていた。
安藤浩二は痛む頬を押さえ、洗面台へ向かう。
続いてよろよろとハンカチを濡らし、切れた口角を拭った。
限界まで開いた蛇口が、安藤の学ランに飛沫を吹き付ける。ぽたぽたと鼻血が落ちると、渦巻く水面が真っ赤に染まった。
「畜生、畜生……!」
安藤は記憶の中を睨み付け、繰り返し吐き捨てる。
夕焼けの中に佇む斎木美佳は、冷たい笑みを浮かべていた。
安藤がクラスメイトの美佳に告白したのは、三日前のことだった。
美佳が自分に振り向いてくれるなんて、最初から期待していない。
ただ解放したいだけだった。
胸の中に閉じ込めておくのが苦痛になった、この気持ちを。
想いを告げられた美佳は、困ったように眉を寄せる。
結局、彼女は返事を保留にし、校舎裏を後にした。
安藤浩二と言う人間を客観視するなら、当然の反応だ。
エラの張った顔に、脂っぽい団子っ鼻。
成績は中の下で、五〇㍍走のタイムもクラスで一番遅い。
かと言って、面白い話が出来るわけでもない。
ブツクサとはっきりしない話し方は、母親にさえイラつくと言われる。
対する美佳は、学年でも一二を争う美少女。
街で声を掛けられ、雑誌に載ったことも一度や二度ではない。
男友達も多く、いつも取り巻きを連れている。
クラスのお荷物が告白するなど、身の程知らず以外の何でもない。
バカにするなと唾を吐かれても、文句は言えなかった。
……そう、唾を吐かれる程度なら、どれほどマシだっただろう。
楽観的過ぎた自分を嘲笑し、安藤は鏡を見遣る。
血塗れになった鏡像は、丸い鼻を平らに潰していた。
「美佳が放課後、開光公園に来いってよ」
美佳の取り巻きに告げられたのは、今日の昼休みのことだった。
学校を出た安藤は、スキップで公園に向かう。
フラれるのは間違いないだろう。
しかし、美佳直々に返事をもらえるなら、想定以上の結末だ。
約束の四時から一〇分経ち、二〇分経ち、公園から子供たちの姿が消える。
結局、美佳が姿を現したのは、五時の鐘が鳴った後のことだった。
小悪魔っぽく笑う彼女は、茶髪の男子高校生を連れていた。
お互いの髪を嗅ぐような密着ぶりが、ペアリングが、安藤に二人の関係を教える。
ショックを受けなかったと言えば嘘になるが、今さら落胆することではない。
美佳のような美人に、彼氏がいないほうがおかしい。
「か、彼氏さん? カッコいい人だね」
安藤は媚びへつらった笑みを浮かべ、必死に美佳のご機嫌を取る。
途端、茶髪の男はガムを吐き捨て、顎で安藤を指した。
「コイツか? お前に付きまとってるキモい奴は」
「へ……?」
硬直する安藤を余所に、美佳が頷く。
安藤を見る彼女は、ウジでも眺めるように顔を顰めていた。
「俺のミカに手ぇ出すんじゃねぇ!」
茶髪は得意げに言い放ち、安藤の顔面に拳を叩き付ける。鼻を強打された安藤は、回転しながら地面に倒れ込んだ。
あの時はビクっとなってしまったが、思い返すと吹き出しそうになってしまう。よくもまあ恥ずかしげもなく、あんなVシネみたいな啖呵を切れたものだ。
「二度とミカに近付くんじゃねぇ!」
甲高い声でがなり立て、茶髪は美佳と腕を組む。
頼もしい彼氏を見つめる美佳は、下品に目を潤ませていた。
「行こ! 行こ! 映画始まっちゃうよ!」
美佳は声を弾ませ、公園の外に茶髪を引っ張っていく。苦痛に喘ぐ声は聞こえていたはずだが、チラリとも安藤を見ることはなかった。
「俺だって、好きでこんな顔に生まれたんじゃねぇよ……」
記憶から現実に目を戻し、安藤は正面の鏡を睨み付けた。
醜く憎い鏡像を引き裂こうとしても、いたずらに爪が滑り落ちていくばかり。そうこうしている内に目の前が滲んで、一滴二滴と涙がこぼれ落ちる。
自分に対し、露骨に顔を歪ませた美佳。
見せ付けるように、美佳と腕を組む茶髪。
そして一発も殴り返すことなく、地面にへばり付いた自分自身。
サムネイル状に切り取られた光景が、入れ替わり頭の中を駆け巡る。
堪らず唸り、安藤は滅茶苦茶に頭を掻き毟った。
これほど誰かを八つ裂きにしたいと思うのは、生まれて始めてだ。
なのに、自分には復讐する力も度胸もない。
美佳から受けた仕打ち以上に、その事実がどうしようもなく悔しい。
「クソッ……! クソォ……!」
照らす価値もないと思ったのか、蛍光灯がふっと消える。
途端に暗闇が広がり、鏡ごとトイレの中を塗り潰した。
三月にしてはじっとりした風が吹き、半開きの窓が震える。
同時に個室のドアが前後し、錆びた蝶番がか細く悲鳴を発した。
「このまま世界中が消えちまえばいいのに……」
心底願い、安藤は窓の外を眺める。
空も地面も消滅しなかった以上、神に祈りが届かなかったのは間違いないだろう。だが、誰も聞き入れなかったとは言えないかも知れない。
ぐらあ……。
唐突に鼓膜を震わせたのは、鳴き声。
耳の中をギザギザに傷付けるような不協和音だった。
「こ、コオロギか?」
順当な予想を口にし、安藤はポケットのスマホを出す。
頼りなく光る画面を懐中電灯の代わりにし、音のした方向に向けていく。
トイレットペーパーの転がった床。
碁盤目状にタイルの貼られた壁。
個室のドア。
光。
個室のドアに、小石大の光が留まっている。
「……ホタル? 澄んだ川も、水辺の草むらもない都心に?」
訝しみながら、安藤は光に顔を寄せていく。
手を伸ばせば届く距離に来た瞬間、目の前のドアが消えた。
代わりに視界を占拠したのは、毒々しい蛍光色。
身動ぎ一つしなかったはずの光が、顔面に飛び掛かって来たのだ。
「ヒッ!」
安藤は悲鳴を上げ、反射的に腰を引く。
たちまち重い尻が背中を引っ張り、安藤の腰を床に叩き付けた。
「何だ!? 何なんだよ!?」
混乱が恐怖が口をこじ開け、絶叫が響き渡る。
瞬間、光は床を蹴り、安藤の口に飛び込んだ。
口中に生臭さが広がり、安藤の目に涙を溜めていく。食道は頻りに顫動し、胃の中身を戻そうとしていた。
「ひゃめろ! ひゃめろぉぉ!」
安藤の懇願を余所に、舌の上で、歯の裏側で、傍若無人な光が暴れ回る。
内側から突かれる度に、凸凹と頬が膨らむ。閉じられなくなった口からは唾液が迸り、顔面をふやけさせていく。
程なく光が喉の奥へと進み、首の中程がぼこっと隆起する。同時に首の皮が光を透かし、仄かに天井を照らした。
湿っぽく重い――そう、生乾きの雑巾に似た感触が喉を塞ぎ、安藤の呼吸を阻害する。息が、息が出来ない!
光の正体は何なのか? 自分は何をされようとしているのか?
安藤には何一つ判らない。
だがこのままでは、確実に窒息死する。
安藤はひたすら喉を掻き毟り、床の上を転げ回る。手を振り回し、足をバタ付かせ、光を吐こうとする。
安藤の動きに連動し、天井に投影された光が跳ね回る。レバーを掴まれた便器は絶え間なく水流を放出し、床に垂れたトイレットペーパーを吸い込んでいく。
激しい抵抗を受けた光は、だが微塵もたじろがない。
むしろ一層身を捩り、自ら躍り食いされていく。
光が喉の奥へ奥へと突き進み、首の膨らみが鎖骨の中心に近付いていく。
透けていた光が胸に沈むと、天井は再び闇に閉ざされた。
ぐらあ……。
ぐふぐふと呻くばかりだった口から、ふとあの鳴き声が漏れる。無邪気な調子は、オモチャを手に入れた子供、あるいはエサに有り付いた雛のようだ。
寒い……。
刻一刻と心臓の温度が下がり、手足やつま先が感覚を失っていく。
もしかしたら、体温の源を直接啜られているのかも知れない。
安藤の血が冷えていくに従い、分厚い胸から光が漏れ出す。
直後、心臓の真上から光が伸び、再び天井を照らした。
強制的に背中が跳ね上がり、臑からつま先までがピンと伸びる。
瞬間、剥けるように瞼が開き、視界が真っ白に染まった。
ひょっとして、眼球から光が溢れ出たのだろうか。
酸欠のせいか、低体温のせいか、のぼせたように意識がぼやけていく……。
見る見る四肢から力が抜け、ブリッジ状態だった背中が床に着く。
反面、鼓動は異様に凶暴なリズムを刻んでいた。
そう、今まで聞いたことがないほどに。




