どーでもいい知識その④ 笑顔は使い勝手のいい表情
第二章は今回で終了です。
次回は番外編。
カブトガニの血について解説します。
とは言え、彼女のことを詳しく知っているわけではない。
住所や家族構成は勿論、頻繁に海外へ行く理由も謎に包まれている。
アメリカやヨーロッパなら、観光であることを疑う余地はない。しかしマダガスカルにベーリング海と言えば、昆虫学者や漁師しか赴かない土地だ。
旅の目的が気にならないかと言えば、嘘になる。
それでも訊かない――いや訊けないのは、単純に話してくれないから。
半平の答えを聞いた第三者は、にべもなく言い放つだろう。
話してくれないなら、こちらから尋ねればいい。
確かに、「何してきたの?」なんて世間話だ。
でも口に出すのは勇気が要る。
下手をしたら、崖から飛び降りるほうが楽かも知れない。
最初の内は、半平もハイネを詮索した。
聞いたこともないような場所に行って来たと聞けば、多少なり好奇心が騒ぐ。
それ以前にお土産をもらったら、土産話にも付き合うのが礼儀だ。
「ちょっと用事があって」
ハイネの答えは、いつもこれだった。
KYな半平が「ちょっと」の内容を掘り下げようとしても、返事はない。
ハイネは完璧な微笑みを浮かべて、会話を終わらせてしまう。
笑顔と言うのは、使い勝手のいい表情だ。
涙や怒声と違い、相手も自分も不快にしない。
それでいて、やんわりと拒絶の意思を伝えられる。
中でも、ハイネの微笑みは絶品だ。
潔癖なまでに屈託なく、言葉より雄弁に警告する。
これ以上そこを追求されたら、呑気に買い食いする仲ではいられなくなると。
そう、実に馬鹿馬鹿しい話だ。
誰かとの関係性を一変させる事情など、そんじょそこらに転がっているはずがない。ドイツ人のハイネに、非日常的な雰囲気を感じてしまうのは仕方ない。しかし一六にもなって、現実とドラマを混同するのはやめたほうがいい。
旅の目的を話さないのは、何かプライベートな事情があるからだろう。
無理に口を開かせて、彼女に不快な思いをさせる必要はない。
ハイネに似合うのは、朗らかな笑顔だ。
曇った表情を浮かべられたら、こちらまで辛い気持ちになってしまう。
半平は異性にも話し掛けやすいタイプのようで、これまでも多くの女子と会話してきた。しかし無条件に涙を、そして笑顔を共有してしまうのは、ハイネが始めてかも知れない。
それは沼津半平が、ハイネのことを好きだからなのだろうか?
実際、独りで歩いている時には灰色の舗道も、ハイネといる間は少し鮮やかに見える。彼女と食べる駄菓子は、普段の何倍もおいしい。
好きか嫌いかと聞かれれば、絶対に好きだ。
と言うか、ハイネを嫌いな男はいないだろう。
ペンライトに囲まれたステージにも、彼女ほど視線を虜にする顔はない。
大粒の瞳と言い、静脈の透けた雪肌と言い、完成度の高さには息苦しささえ覚えてしまう。思索中の横顔から漂う気品は、ファンタジー映画の王女そのものだ。
こと細かに知り合う前の様子を憶えているのも、目を奪われていたからに違いない。ドイツ人や白髪でも、男性や老婆なら目で追うことはなかったはずだ。
半平さんが好き。
万が一、ハイネが言ってくれたなら、素直に嬉しい。
ただハイネに抱くのが恋愛感情なのかと言うと、少し違う気がする。
「好き」なのは間違いないが、女子が甲高い声で語るような「好き」ではない。少女漫画やドラマで学んだ恋心と比べると、違和感を覚えてしまう。
事実、半平はハイネと手を繋いだり、キスしたいとは思わない。
ただずっと側にいて、彼女を見ていたい。
それだけで、この胸に安らぎが広がっていくから。
特別な行為を一切願わない欲求を、語彙の少ない半平は上手く言葉に換えられない。少なくとも「嫌い」ではないので、今は「好き」と言う単語を仮縫いしてある。




