㉑Unlimited
「釣られろぉぉ……!」
力めば力むほど、喉から血が迫り上がってくる。
仮面の底に溜まった脂汗が、急速に水位を上げていく。
腹筋、背筋、大胸筋、ひらめ筋、休ませている筋肉は一つもない。
モニターのナマズさんも顔を真っ赤にし、胸ビレに力こぶを浮かせている。
力が抜けるので、引っ込んでてもらいたい。
ほげぇぇ……!?
次第に怪物が震えだし、体内から歯医者のドリルに似た高音が漏れる。同時に目、鼻、口、フリンジの負わせた刺し傷と、巨体にある穴から黄土色の煙が棚引き始めた。
力を入れすぎて、身体がオーバーヒートしたわけではない。
音も煙も、原因は釣り針にある。
〈マスタード〉の歯同様、フリンジには振動器が内蔵されている。毎秒六万回の振動と、振動の生む摩擦熱は、その貫通力を何倍にも上昇させていると言う。
振動を発生させているのは超音波で、人間の耳には聞こえない。
今、耳に届いている音は、釣り針本体が振動する音だろう。あるいは釣り針によって震える怪物が、地面と擦れ合っているのかも知れない。
個々のフリンジは、鉄板を融かすほどの高熱を帯びている。
それでもまだ、各自が別の場所を狙い、一瞬で貫通している内はいい。
だが一〇〇〇本を超える穂先が一つに纏まり、一つの場所を持続的に熱したとしたら?
早い話、怪物は今、体内に熔鉱炉を抱えている。
ぼこ……ぼこ……と怪物の体表が沸騰し、無数の水膨れが破裂する。
気化した体液は血管を破裂させ、すぽん! と眼球を撃ち出した。
バイザーで嗅ぐ「焼き魚」の臭いは、「くさや」ばりに強烈だ。
ガソリンスタンドに集まった負傷者たちも、揃って目に涙を溜めている。ハイネはハンカチを取り出し、子供の口に当ててやっていた。
ぐらぁぁ……!
無惨に融け、皮膚を垂らしたエスカたちは、救いを求めるように天へ群がっている。きっと蜘蛛の糸を見た亡者どもは、ああいう姿を晒したのだろう。
香苗の母親もまた、融けた下顎を「とろみ」のように垂らしている。
恨みを通り越し、憐れみを湛えた瞳は、半平に問い掛けていた。
あなたはまだ生きたいの?
そんなに苦しそうなのに?
すっぱり死んでしまったほうが、ずっと楽じゃない。
……そうですね。
半平は一度肯定し、不遜にも言い返す。
楽だからこそ、それは出来ない。
終わったら、必ず償いに行きます。
だから今だけは、背後の人たちを道連れにしてしまう今だけは、見逃して下さい。
半平は香苗の母親をまっすぐ見つめ、記憶に焼き付ける。
痛々しく歪んだ顔を。決して乾くことのない涙を。
もしかしたら、この世界には〈黄金律〉以外にも、カミサマがいるのかも知れない。
正義を愛し、非道を憎む彼は、あの顔を使って教えてくれたのだろう。
執行猶予中であることを忘れるな、と。
「まだ……死ねねぇ……!」
〈マスタード〉は歯を食いしばり、釣り針を引く腕にありったけの力を込める。
ここで倒れたら、香苗の母親に真実を教えられなくなってしまう。
ほげぇぇ!
怪物は〈マスタード〉に対抗し、更に強く地面にしがみつく。
途端、胸ビレが地面に沈み込み、巨体の周囲からダークグレーの粒子が立ち上る。
正体は、今の今まで道路を覆っていた鋪装だ。
恐らく密着した巨体から振動が伝わったことで、粉々に砕かれたのだろう。
振動同様、怪獣から伝導した熱は、道路を熔融させた。
巨体と地面の間から紅蓮の液体が染みだし、車道を浸水させていく。あと一時間も続ければ、日本地図にもう一つ、赤い琵琶湖が加わるかも知れない。
琵琶湖と言えば、日本産ナマズの総本山だ。日本固有種のビワコオオナマズとイワトコナマズは、琵琶湖や付近の川だけに棲息している。
いよいよ限界が近いのか、間隔の短い警報が仮面の中に鳴り響く。間髪入れず、モニターに〈PDF〉の略図が表示され、丸ごと大きな「×」に変わった。
延髄の走馬燈は、ガタガタと震え――いや、首にくっついたまま飛び跳ねている。もはや、いつ爆発してもおかしくない。
どのみち長くは保たないなら!
一か八か、〈マスタード〉はイメージする。
走馬燈のある延髄から、間欠泉が噴き出す様子を。
先程は穏やかなせせらぎを想像することで、走馬燈が安定した。
恐らく〈発言力〉の流れは、装着者のイメージに支配されている。だとするなら、天を突く水柱を思い描くことで、走馬燈に膨大な〈発言力〉が集まるはずだ。
果たして、〈マスタード〉の推測は正しかった。
にわかに走馬燈が輝きを強め、回転速度を上げていく。
同時に時計回りだった回転方向が、左回り、右回り、また右と変化し、影絵を振り回した。目まぐるしく攪拌されるナマズが、目を回す日は遠くない。
程なく走馬燈から幾つもの火花が散り、黒煙が視界を霞ませる。
極限に達した輝きはついに影絵を掻き消し、走馬燈の外まで溢れ出た。
二股に分かれ、ひらひらとはためく姿を、世間はどう形容するだろう?
翼?
尻尾?
いいや、マフラー。
そう、ヒーローには欠かせないマフラーだ。
どうも出力に変換しきれなかった〈発言力〉が、光として逃されているらしい。
大量の〈発言力〉が全身に流れ込み、真っ黄色だった流動路が山吹色に輝く。途端、釣り針が金色に輝き出し、怪獣と地面の間に小石一個分の空間を作った。
間違いない。
浮いている。
タンカーと見紛う怪獣が。
「どりゃっ! どりゃっ! どりゃっ!」
すかさず〈マスタード〉は釣り針を振り、右、左、右と巨体を振り回す。怪獣はビル、マンション、ビルと両脇の建物に衝突し、融けた頭を腫らしていった。
ほげぇぇ……?
ふと怪獣の口から呆けた声が漏れ、地面に食い込んでいた胸ビレが浮き上がる。何回も脳天を打ち付けたせいで、目が回ったのかも知れない。
勝負!
脳内で瞬いた二文字が合図。
〈マスタード〉は怪獣に背を向け、釣り針の根元を一本背負いのように担ぐ。加えて一気に身体を前傾させ、釣り針を引き、引き、引っ張る。
途端に額と地面の距離が詰まり、身体と釣り針を繋ぐ竿が撓り、撓り、撓る。瞬間、ふっと空母を牽引しているような負荷が消え、巨大な影が街並みを覆った。
勝負を急ぎすぎて、釣り針が外れた!?
〈マスタード〉は慌てて振り返り、怪獣を見遣る。
その瞬間、目に入ったのは、空っぽの車道。
今の今まで視界を封鎖していた巨体が、地上のどこにも見当たらない。
代わりに生焼けの影が宙を舞い、空と大地の間を塞いでいる。




