⑲Sekigaharaの戦い
以前本編で紹介したように、カンディルは非常に凶暴なナマズです。
そしてその凶暴性は、〈マスタード〉にも受け継がれているようで……。
次回は番外編。
近年、深海魚が食卓に上がり始めた理由を語ります。
他人の命を奪うことが、どれだけ重く苦しいか。
香苗を殺した半平は、知っている気でいた。
そう、知っている気でいただけだった。
自分の意思によって、故意に、この手で直接奪い取る?
一〇年、二〇年と積み重ねてきた日々、記憶、時間を?
考えただけで、震えが止まらなくなる。いっそ卒塔婆を、殺人と言う解決策を可能にする卒塔婆を投げ捨ててしまいたい。
だが掛け替えがないからと言って、キモを野放しにすることは出来ない。
確かに唯一無二の命は守れるが、街が廃墟に、人々が亡骸になる。
そしてまたハイネは、もう一つの事実を〈マスタード〉に告げた。
無数の〈YU〉と融合したキモは、大量の意識に希釈され、刻々と自我を失っている。何も手を打たなければ、近い内に精神的な死を迎えるだろう。
確かに〈結論〉を放てば、キモを殺すかも知れない。
だが指を咥えて見ていても、街の人々を見殺しにする。キモの心を死なせる。
行動しなかった場合の語尾は、「断定」だ。
だが行動した場合の語尾には、「知れない」が付く。
そう、誰一人死なせない可能性は、行動した先にしかない。
「やるっきゃ……ねぇ!」
〈マスタード〉は自分を怒鳴り付け、卒塔婆の横棒を最上段の「D」に上げる。
チーン!
不吉な高音が響き、少し遅れて読経が鳴る。
どちらにせよ、今はあまり聞きたくない音だ。
〝出痛怒秘遺屠〟
〝P・E・R・I・O・D〟
一つずつ読み上げる声に同調し、卒塔婆の目盛りを飾る六文字が瞬く。最上段の「D」に到達した瞬間、白かった光は赤、橙、黄色、緑、青、紫を交えたローテーションに変わった。
七色の光が上から下へ、下から上へと駆け巡り、目盛りの六文字を明滅させる。間髪入れず、読経が響き、怪獣に終わりの時を告げた。
〝秘離悪怒〟
〝堕唖底泥泥 烈痛業〟
にわかに流動路を巡っていた光がスピードを上げ、ポンチョのフリンジに流れ込む。真っ黄色に染まるにつれて、フリンジは怒髪のように逆立っていった。
「喰い尽くせ……!」
〈マスタード〉は激しく仰け反り、空を睨む。
同時に力の限り雄叫びを上げ、空を大地を揺さ振った。
無数のフリンジが、〈カンディルアー〉が、撓り、撓り、撓る。続けて我先に飛び、飛び、飛び出し、ロープの付いた銛のように空を貫く。
ぼん! ぼん! と捕鯨砲紛いの発射音が連続し、重い振動が歯の根を突く。時折飛び散る歯の欠片と言い、口の中にキツツキを放たれた気分だ。
隙間なく密集したフリンジは、黄色い塊となって空中を疾駆していく。一方向に殺到する流線型と言う構図は、クロマグロの大群としか言いようがない。
確かに太さは鉛筆程度だが、小兵な分、スピードはこちらのほうが上だ。クロマグロが時速八〇㌔なら、フリンジは二〇〇㌔近く出している。
一本一本の起こす風では、落ち葉を浮かすのが関の山。
だが一〇〇〇本以上も結集すれば、音も風圧も新幹線に等しい。
大群が横切る側から、木片が金属の切れ端が、コンクリ片が吹き荒ぶ。
幾つもあった瓦礫の丘は、見る間に姿を消していった。
ほげぇぇ!?
あからさまに狼狽した声を発し、怪獣は一歩下がる。
だがもう一度、今度は自分を鼓舞するように咆哮し、前に出る。
その瞬間、爆発にも似た轟音が木霊し、何本ものフリンジを叩き落とした。
ぐらぁぁ!
怪獣の全身から鬨の声が上がり、鬼の形相をしたエスカたちが飛び出す。
かたや眩く輝く切っ先で、空気を滅多刺しにする東軍。
かたや白濁した皮膚を光らせ、櫛状の牙を剥き出しにした西軍。
関ヶ原になったのは、両軍の中間地点に当たる空中だった。
フリンジがエスカの眉間を射貫き、黄緑の体液が降り注ぐ。
エスカがフリンジに噛み付き、〈マスタード〉に繋がる部分を食いちぎる。
無限に響くのは、斬り結ぶような金属音。
方々で瞬くのは、真っ白な火花。
揃ってロープ状の両陣営が絡み合い、空戦の舞台に超巨大な毛玉を形作っていく。
ぐらぁぁ!
時が経つにつれて、勝利の雄叫びがエスカの悲鳴を上回っていく。
エスカの悲鳴が減るにつれて、戦いの舞台が〈マスタード〉に近付いていく。
押されるのも無理はない。
得物の頭数、サイズ、どちらも怪獣のほうが圧倒的に上だ。
だが、引き下がれない。
今、自分の背後には街がある。みんながいる。ハイネがいるのだ。
「くっ……そぉぉ……!」
不退転の心意気に反し、〈マスタード〉のかかとは下がっていく。
足の裏の口で道路に吸い付いても、止まらない。〈マスタード〉の両足は鋪装を削りながら、白線を引きながら、じりじりと後退していく。
ぐらぁぁ!
不意に甲高い声が響き、頭上から紐状の影が降る。
ついにフリンジの大群を突破されてしまったらしい。
「ヤベッ!」
咄嗟に地面を蹴り、〈マスタード〉は左へ飛ぶ。
その瞬間、視界の奥に出現する二匹目。
身を低く!
命じる前に身体が反応し、膝を畳む。
途端、頭上から歯を閉じる音が響き、脳天スレスレをエスカが飛び去った。
不覚にも食いちぎられたフードが、高々と宙を舞う。
あと少し回避が遅れたら、生首が飛んでいただろう。
一休みする暇もなく、三匹目、四匹目、数え切れないほどのエスカ。
まずブリッジで一匹目を避け、跳ね起きるついでに二匹目を跳び越す。
三匹目、四匹目はムーンサルトで回避し、正面から来た五匹目にはバク宙で対処。そうして空中で回っていると、突然、背中から火花が散る。完璧に避けたつもりが、掠められてしまったらしい。
「いつまでも躱してらんねーぞ、こんなの!」
〈マスタード〉は地面に降り立ち、素早く前を向く。
鯉のぼりのようにはためくイリシウムが、空を埋め尽くしている。
だが無数のエスカの間には、一本の空間が走っていた。
太さはぎりぎりフリンジを通せるくらいだが、一直線に怪獣まで繋がっている。攻撃に意識を傾けすぎたせいで、守りが疎かになっているのかも知れない。
「チャンスってやつか!?」
〈マスタード〉はスライディングし、エスカの下をかいくぐる。
その傍らフリンジを撃ち出し、勝利へ繋がる一本道に滑り込ませた。
ヒュッ! と高い風音が響き、矢のような残像が空中を貫く。
刹那、怪獣の目玉にフリンジが刺さり、水っぽい炸裂音が轟いた。
盛大に体液が噴き出し、怪獣の顔面を黄緑に塗る。天に届かんばかりの水柱は、まるでクジラが潮を吹いたかのようだ。
ほげぇぇ!
怪獣はトンネルのような口を全開にし、壮絶に絶叫する。
一瞬、〈マスタード〉の世界から音が消え、平らだった地面が左右に傾く。
聴覚は勿論、平衡感覚を司る三半規管にまでダメージを受けてしまったらしい。足の裏の口で地面に吸い付かなければ、間違いなく転んでいた。
ほげぇぇ! ほげぇぇ!
激痛に我を忘れた怪獣は、束の間、エスカの動きを止める。
今を逃したら、後はない。
「行けっ! 行けっ!」
〈マスタード〉は防御をかなぐり捨て、フリンジを怪獣に集中させた。
真っ黄色な残像を射り、射り、射り、怪獣を刺し、刺し、刺しまくる。
見る見る巨体が針の山に変わり、四方八方からバイオリンに似た高音が鳴り渡る。勢いよく刺さったフリンジが、ピンと伸びた「尾」を震わせているのだ。
ほげぇぇ!
唐突にのたうつのを止め、怪獣は〈マスタード〉を睨み付ける。
もしや針状のフリンジが、痛みを麻痺させるツボでも刺したのだろうか。
ぐらぁぁ!
やにわに一体のエスカが動き出し、〈マスタード〉に突っ込む。
フリンジを攻撃に集中させている以上、迎撃することは出来ない。
〈マスタード〉はエスカに背を向け、一目散に塀まで逃げた。
再びエスカと向き合い、鋭く光る歯を引き寄せる。
避けろ! 避けろ! と、本能の声が最大になるまで引き寄せる。
エスカが鼻先に来た瞬間、一気に塀を駆け上がる。
たちまちエスカの眼球から骸骨が消え、代わりに塀が映り込む。
ぐらぁぁ!?
ナマズの〈マスタード〉に、アンコウ(?)の言葉は判らない。
しかし今回に限っては、通訳することが出来る。
間違いなく、「しょ、衝突する!?」だ。
ぐらぁぁ!
エスカは顔中に血管を浮かせ、自分自身にブレーキを掛ける。
瞬間、エスカの鼻が塀に触れ、間一髪、顔面が止まった。
ぐらぁぁ!
エスカは憎々しげに吠え、塀の上の〈マスタード〉に血走った目を向ける。
すぐさまイリシウムがヘビのようにくねりだし、塀を這い上がっていく。




