⑱Rampage
言い方は悪いですが、コンビニやスーパーには深海魚の死体がごろごろ転がっています。
次回の番外編では、そんな身近な深海魚たちを紹介していきます。
〝帝是〟
首輪の走馬燈が異常に輝き、再び延髄に穴が空く。
途端、全身の熱が漏れ出し、二〇〇万を超える汗腺が冷たく湿った。
さすがに切り札と言うだけあって、大量の〈発言力〉を消費するらしい。
〝闇血帝是〟
難なく支えられていた装甲が重みを増し、全身にのしかかる。
咄嗟に歯を食いしばらなければ、膝を着いていたかも知れない。
ほげぇぇ!
今の今までビルを殴り付けていた怪獣が、突如、動きを止める。
同時に巨大な眼球がぎょろりと蠢き、〈マスタード〉を睨み付けた。
普段は光でおびき寄せるアンコウが、今日は走馬燈の光におびき寄せられたらしい。
見付かってしまったのは最悪だが、一方では瓢箪から駒だ。破壊されるのは、化け物だけでいい。
ほげぇぇ!
猛烈な雄叫びがビルを波打たせ、怪獣の尾ビレが地表を薙ぎ払う。
視界一面を埋め尽くす様子は、もはや突進する壁としか言いようがない。
たちまち地響きが聴覚を奪い、凄まじい突風が瓦礫を転がす。
土煙は津波のように荒れ狂い、焦げた車を軒並みひっくり返した。
「こなくそ!」
〈マスタード〉は高々とバク宙し、尾ビレを跳び越す。
着地しても、一息吐く余裕はない。
すぐさま目の前の土煙から電柱が飛び出し、〈マスタード〉の顔面に飛び込む。先ほど〈ポロロッカ〉の折ったものが、突風に弾き出されたのだろう。
「危ねっ!」
〈マスタード〉は反射的に側転し、大きく横に飛ぶ。
直後、電柱が髑髏の残像を貫き、背後の塀に突き刺さった。
あと一瞬、動くのが遅かったら、顔面を打ち抜かれていただろう。
ほげぇぇ!
怪獣は悔しそうに呻き、脇腹のイリシウムをバネのように縮めていく。
そうして限界まで反発力を蓄え、一気にそれを撃ち出した。
ぐらぁぁ!
イリシウムをゴムパッチンのように揺らしながら、人型のエスカが〈マスタード〉に迫る。今にも食い付かんばかりに開いた口は、櫛状の歯をさらけ出していた。
「少しは休ませろよ!」
〈マスタード〉はベリーロールを使い、先端のエスカを跳び越える。続いてリンボーダンスのように身を低くし、派手に撓るイリシウムをかい潜った。
忙しいアクションに呼応し、七転八倒する視界。
気分はもう、体操選手だ。
ナマズさんもフレーフレーと両手を上げ、声援を送っている。
〝阿烏怖蔽弁〟
ようやく待望の読経が鳴り響き、準備が終わったことを伝える。
ハイネは一分少々の辛抱と言っていたが、随分待たされた気がする。
いくら辛い時間は長く感じると言っても、さすがに焦らしすぎだ。
「遅すぎだっつーの!」
堪らず吐き捨て、〈マスタード〉は胸元の卒塔婆を叩く。そしてそのままタイピン状態の横棒を摘み、「I」から「O」の目盛りに一段上げた。
〝怨幽阿魔阿苦終〟
走馬燈に蓄積されていた光が溢れ出し、全身の流動路に注いでいく。
すかさず手を足を輝きが包み込み、〈マスタード〉の輪郭を掻き消した。
一瞬にして冷や汗が引き、四肢に焼けるような熱が漲っていく。
呼応して、心臓が凶暴に脈打ち、荒い息が仮面内部の温度を上げる。
後は、卒塔婆の横棒を最上段の「D」に入れるだけ。
勝敗がどうなるにしろ、それで決着が着く。
だが、先ほどハイネは言っていた。
キモにとって〈アンテラ〉は、仮初めの肉体に過ぎない。
仮にダメージを負ったとしても、本来の肉体が損傷することはない。
無論、痛みは感じるが、人間に戻ると同時に傷は消え去る。何と致命傷を受けた場合も、仮初めの肉体が消滅するだけで済むと言う。
それを聞いた〈マスタード〉は、期待に胸を躍らせた。
自分の手を汚さずに、戦いを終わらせられるかも知れない。
だが、そんな都合のいい話があるわけもない。
ハイネは深刻そうに眉を寄せ、〈マスタード〉に冷や水を浴びせ掛ける。
人間を怪人に変える栞〈アックマーカー〉には、一つ恐ろしい副作用がある。
そもそも〈アックマーカー〉は〈魂〉に他の生物の〈印象〉を書き込むことで、人間を怪人に変える。
〈魂〉の変質は一時的なもので、〈印象〉を引き剥がすことは難しくない。最初に抜いた栞を差し直すだけで、人間の姿に戻れる。
ただし、〈アックマーカー〉を常用している場合、話は別だ。
栞の〈印象〉には、使用するだけ〈魂〉との結び付きを強くする性質がある。
無節操に使い続ければ、どんどん離れにくくなっていく。最終的には完全に〈魂〉と融合し、人間の姿に戻れなくなってしまうそうだ。
この状態に陥った場合、もはや怪人の姿は仮初めの肉体ではない。
人間の姿に戻れない以上、一瞬にして傷を癒すことは出来ない。
万が一、致命傷を受ければ、普通の生物のように死を迎える。
ハイネは断言していた。
〈結論〉の威力は絶大だ。
怪人が仮初めの肉体でなければ、間違いなく命を落とす。
そして最悪なことに、人間に戻れるか否かは相手を倒すまで判らない。
死体を前にして始めて、〈結論〉を放ってはいけなかったことが判明する。
仮に殺してしまったとしても、相手は皆を危険に晒した悪党だ。
そしてたった一人の悪党が死ぬことで、街中の人が救われる。幸せになる人の数で善し悪しを決めていいなら、〈結論〉を放つことは圧倒的に正しい。
と言うより、他に方法があるなら聞かせて欲しい。
暴走したキモに、言葉は通じない。
それ以前に、相手は街の人々はおろか、自分の命さえ無価値と盲信するキモだ。
何かの間違いで声が届いたとしても、一朝一夕に説得することは出来ない。刻一刻と負傷者の数が増えていく状況で、じっくりと討論している猶予はない。
そう、〈結論〉以外に方法がないのは、百も承知だ。
だが〈マスタード〉の手は動かない。
それどころか、行動出来ない苛立ちに、貧乏揺すりすることすらままならない。
ハイネはなぜ、真実を告げたのか。
考えれば考えるほど、彼女の誠実さに怒りがこみ上げてくる。
敵を倒すことだけを念頭に置くなら、沈黙と言う模範解答があった。
どうしても心苦しいなら、結論が出た後に弁解してくれればいい。
思いも寄らなかった、今回は不幸だった、と。
人でなしの沼津半平なら、皆の笑顔を大義名分にし、こう言えたはずだ。
今回は仕方がなかった。
相手がヒトだと知った時、〈マスタード〉は思った。
化け物になった今の自分なら、傷付けることなく制圧出来るだろう。
今となっては、愚かな自分に吐き気がする。
天地ほど実力差のある戦いでも、攻撃を仕掛けることに変わりはない。
不意に放った一撃が、相手の命を奪う可能性は充分ある。
ましてや、〈マスタード〉が行っているのは、ルール無用の実戦なのだ。




