⑰Q.E.D.
もうお気付きでしょうが、本章のタイトルはアルファベット順になっています。
そして、ついにやって来てしまった「Q」。
……しっくり来る単語を見付けるのは大変でした。
次回はまたまた番外編。
深海に棲むムール貝を紹介します。
「……すいませんでした」
脅かした詫びをし、〈マスタード〉は女性に背を向ける。
凶悪な骸骨が見つめていたら、いつまで経っても震えが止まらないだろう。
化け物が誰かに手を伸ばしたところで、笑顔は帰って来ない――。
判っていた。判ってはいたはずだ。
だが現実に直面すると、痛みとは別の理由で足取りが重くなる。
「まって!」
突然聞こえてきたのは、子供の叫び声だった。
後部座席に座った男の子が、一生懸命ドアを開けようとしている。
「窓! 窓開ければいいんだよ!」
手間取る男の子を見かねて、隣の姉が窓を開ける。
すかさず男の子は窓に突進し、上半身を車外に突き出した。
「ありがとう! おにいちゃん!」
まず男の子が、続いて後ろの姉が、〈マスタード〉に手を振る。
興奮し、赤らんだ顔は、日曜朝八時のハイネにそっくりだ。
「……ありがとう、か」
ずるずると引きずるばかりだった足に、不思議と力が漲っていく。
内心、限界が近いかと思っていたが、これならまだまだ戦えそうだ。
「……礼を言うのは俺のほうだよ」
自分にしか聞こえないように呟き、〈マスタード〉は姉弟に歩み寄る。
声援にお応えし、頭の一つでも撫でてやろうか?
馬鹿な考えが頭を過ぎると、すぐさま薔薇が脳裏に浮かぶ。
化け物の力によって、花壇ごと押し潰してしまった薔薇が。
……やっぱ、ダメだよな。
間一髪、手と言う凶器を閉じ、〈マスタード〉は親指を立てる。
続けて俯きそうになる顔を上げ、努めて豪快に言い放つ。
「おうっ! もうすぐ終わるから、ちょっと離れてろよ!」
「うん、がんばって!」
姉弟は無垢に笑い、〈マスタード〉に手を振る。
〈マスタード〉もまた二人に手を振り、逃げるようにその場を離れた。
沿道の建物は炎に包まれ、火の粉を含んだ風を吹かせている。
モニターを見る限り、〈PDF〉の空調も正常に働いているはずだ。
ではなぜ、やけに肌寒さを感じるのだろう。
特に誰にも触れることが出来なかった手は、小刻みに震えている。
「……相当ダメージを受けたみてーだな」
〈マスタード〉は自分に言い聞かせ、固く手を握り締める。
それからハイネに歩み寄り、破壊されていく街並みを眺めた。
「なんかこう、一撃で戦況を変えるご都合技とかねーの?
ほげぇぇ!
宿敵が足を止めていると言うのに、怪獣は大きなビルばかり引っぱたいている。ハイネが危惧した通り、暴走し、目に付くものを手当たり次第に破壊しているのだろう。
「……ちんたらやってたら、何もかもなくなっちまうぜ?」
〈マスタード〉はまっすぐハイネを見つめ、覚悟を見せる。
何しろ、本当なら光の巨人になって戦うべき怪獣を、人間のまま倒す方法だ。
おまけに万全の状態ならまだしも、今の〈マスタード〉はボロ雑巾に等しい。
よしんば方法があったとしても、無茶で無謀に決まっている。自分の死には無頓着でも、他人の死には過敏なハイネが、軽々しく口を割るはずがない。
「……あるにはあります」
ハイネはやたら聞き取りにくく呟き、つま先を揺り動かす。
十中八九、教えるべきか悩んでいるのだろう。
「お湯注いで三分待ってはい完了! ってわけにはいかないみてーだな」
「半平さんが〈PDF〉に慣れてて、万全な状態なら問題ないんです。でも現実には始めての〈返信〉で、ダメージも受けてる。私の考えてる方法を実行すれば、確実に〈返信〉が解除されます」
「でもさあ……」
異論を唱えようとした矢先、再びハイネが口を開く。
「とは言え、このまま安全策を採っても、ジリ貧なのは確かです。私は〈返信〉も不可能な状態。半平さんも消耗が激しい」
ハイネは眉間にシワを寄せ、苦しげに言葉を続けていく。やはり自分以外を危険な目に遭わせることに、相当な抵抗を感じているようだ。
「いっそ残された力を一気に解放し、一撃に懸ける――それも一つの手です。最悪倒しきれなくても、一時的な行動不能には追い込めるはずです、〈結論〉なら」
ハイネは〈マスタード〉の胸元に手を伸ばし、卒塔婆に触れた。
P・E・R――。
卒塔婆の目盛りを撫で上げていったその手が、「I」に差し掛かった瞬間、止まる。
「『ケツロン』って何?」
「助っ人外国人じゃないですよ、一応言っときますけど」
「ああ、台湾リーグの人じゃないんだ」
〈マスタード〉は全身の口を空け、しばらく硬直する。
まさか、お得意のボケを封じられるとは……。
「〈結論〉って言うのは、瞬間的なリミッター解除です。どんな理屈にも拡大解釈の余地はありますよね? 〈PDF〉を形作る嘘にも、少しだけ拡大解釈出来る部分があるんです」
「カクダイカイシャク?」
思わずカタコトで聞き返し、〈マスタード〉は首を傾げる。
「えっと、最高時速二〇〇㌔の車は、絶対に二〇〇㌔以上出せないと思いますか?」
「いや、出せるでしょ。下り坂とか追い風の時とかは、かなりオーバーすんじゃね?」
「それなんです!」
突如、興奮し、ハイネは〈マスタード〉の顔を指す。
「その『二〇〇㌔以上出る場合もある』って話を誇張して、どんどん大袈裟にしていく。『二〇五㌔出るなら、二一〇㌔出てもよくね? 二一〇㌔出るなら、二二〇㌔出してもいーべ?』みたいな感じに、少しずつ〈黄金律〉を譲歩させていくんです」
やにわにハイネは左足を下げ、正拳突きの構えを取る。
「そうやって普段以上の力を引き出して、最大級の一撃を放つんです!」
フッ!
ハイネは勇ましく掛け声を上げ、拳を突き出す。
途端に彼女はよろめき、近くの塀に寄り掛かった。
どうも拳と一緒に、残り僅かなHPも発射してしまったらしい。
「最大級の一撃って……必殺技?」
「ええ、キックでスペシウムでダイナミックです」
ハイネはよろよろとキックを放ち、手をクロスさせ、最後には棒切れを振り下ろす。
傍目には完全に「ごっこ遊び」だが、当人の顔は至って真面目。
これから一世一代の大博打だと言うのに、〈マスタード〉の身体からは力が抜けていくばかりだ。まあ、変に力が入ってしまうよりはマシだが。
「ただ、猜疑心の強い〈黄金律〉を騙していられる時間には、限りがあります。それ以上に、スペックを超えた力は、〈PDF〉に大きな負担を掛けてしまう。最大級のパワーを発揮出来るのは、ごく限られた時間だけです」
一通り説明を終えると、ハイネは申し訳なさそうに俯く。
「……すみません。こんな一か八かの手段しか思い付かなくて」
「何言ってんの。これ以上の作戦はねーって」
〈マスタード〉は不敵に笑い、自身の左手を殴り付ける。
彼女を励ましたかったのは勿論だが、本心から出た言葉だったのも事実だ。
「やっぱ、ヒーローは派手な一発で決めなきゃ」
「……ですね」
ハイネは控え目に笑い、続いて〈結論〉の使い方を教える。また律儀にも、これからやろうとしていることの「意味」を〈マスタード〉に伝えた。
「……行ってくる」
〈マスタード〉は裏路地を渡り歩き、怪物の背後に回る。それから教えられた通り、卒塔婆の横棒を「R」から「I」の目盛りに一段上げた。
〝遺無怖牢挫震〟
電子音声と来たら、相変わらずお通夜状態。
必殺技を放とうとしていると言うのに、ちっともテンションが上がらない。
おまけにモニター中央では、愛くるしいナマズさんが瞳を燃やしている。




