⑯Power
長ったらしいラストバトルもいよいよ後半戦。
巨大アンコウの猛攻は、街を廃墟に変えていきます。
次回は再び番外編。
深海に潜むゾンビを紹介します。
「趣味がワリぃにもほどがあるっての……!」
思わず毒突くと、〈マスタード〉は一つずつエスカを確かめていく。
幸い家族や親しい人たちの顔は交じっていない。
勿論、それだけで〈YU〉に襲われなかったとは言い切れない。
反面、奴等の宿主になり、誰かを襲うことはなかったようだ。
だが〈マスタード〉は息を止め、激しく肩を戦慄かせる。
見開いた目に映るのは、一つのエスカ。
家族や親しい人々ではないが、それ以上に忘れられない顔。
芦尾香苗の母親だ。
黄緑の血涙。
限界以上に開いたせいで、鼻の上より長くなった口。
葬儀の日のように悲痛な叫び声は、半平に訴え掛けている。
何で、あの子が死ななきゃいけなかったの?
なぜ、あなたは生きているの? ぬけぬけと生き返ったの?
半平には、その場凌ぎの謝罪さえ思い付かなかった。
「俺は……」
〈マスタード〉はエスカから目を逸らし、地面に目を向ける。
報いは、電車に撥ねられたような衝撃だった。
何が起こった!?
右に視線を飛ばし、怪獣の胸ビレを、地上最大の平手を見た時にはもう遅い。
既に地面から足が離れ、身体が風音を奏でている。
〈マスタード〉は地表を掠めるように吹っ飛び、一直線にスーパーへ突っ込む。
突風と土煙を纏った身体は、いとも容易く外壁をぶち抜いた。
ドミノのように陳列棚を倒し、倒し、倒しても、勢いは全く衰えない。
〈マスタード〉は瞬く間に店内を横断し、入口の自動ドアを粉微塵に打ち砕く。そうして再び店外へ飛び出すと、駐車場のワゴンに突っ込んだ。
瞬間、フロントガラスに穴が空き、交通安全のお守りが宙を舞う。同時に〈マスタード〉はリアウィンドウを貫き、ワゴンの後ろにあった自販機に飛び込んだ。
たちまち自販機が陥没し、ナマズの魚拓を刻み、重量級の衝撃が骨格を殴打する。加えて金物屋が倒壊したような轟音が鳴り渡り、取り出し口から缶ジュースが溢れ出た。
「ぐあ……」
〈マスタード〉はボロッと陥没から剥がれ落ち、顔から地面に倒れ込む。
何と言うことだろう。
地面に手を着くつもりが、指一本動かせなかった。
仮面に保護されていたはずの脳が、細かく痺れている。
全身の骨が、老朽化した階段のように軋んでいる。
咳が、咳が止まらない。
口から濁った音が噴き出す度、仮面の内側に鮮血が吹き付けている。
程なくモニター上の景色が砂嵐に変わり、〈PDF〉の略図から目の灯りが消える。どうやら、メインカメラをやられたらしい。
すぐさまサブカメラが起動し、砂嵐を景色に戻す。多少画質は粗くなったが、外部の様子を把握するのに支障はない。
ほげぇぇ!
怪獣は〈マスタード〉には見向きもせずに、全身のイリシウムを天へ伸ばす。
もしかしたら、偶然アリを踏んだくらいにしか思っていないのかも知れない。
ぐらぁぁ!
エスカと言うエスカが黄緑の液体を頬張り、うがいを始める。
同時に「ガラガラ」の大合唱が響き渡り、彼等の口から白煙が棚引く。
ぐらぁぁ!
エスカたちは一回俯き、すぐさま頭を跳ね上げる。
瞬間、彼等の口から黄緑の液体が飛び出し、硬球ほどの水玉と化した。
ひゅうぅぅ……。
長く風音を響かせながら、無数の水玉が天に昇っていく。
紫紺に染まった空を、こぼれんばかりに埋め尽くす点。
まるで目々森博物館で観た天の川だ。
ほげぇぇ!
不意に怪獣が絶叫し、全身のエスカが天を仰ぐ。
空に祈りを捧げるような仕草は、雨乞いだったのだろうか。
途端に黄緑の水玉が落下を開始し、大地に降り、降り、降り注ぐ。
刹那、街の隅々から閃光が迸り、一〇〇本近い火柱が天を突いた。
恐らくあの水玉には、落下の衝撃で爆発する性質があるのだろう。しかも炎の大きさを見る限り、一発一発が〈YU〉の光弾と同等の威力を持っている。
沿道の建物から次々と爆炎が沸き上がり、赤く融けたコンクリ片が乱れ飛ぶ。
地面から乱立する火柱は、周辺の車を一台残らず打ち上げてしまった。
水玉の降雨量に比例して、炎が広がっていく。
炎の面積に比例して、ススと黒煙が夕日を遮る。
ただでさえ停電していた街は、見る見る暗闇に呑まれていった。
これではまるで、恐竜絶滅の再現だ。
「畜生っ……!」
〈マスタード〉は地面に拳を突き立て、俯せの身体を押し上げていく。
少し力んだだけで骨が軋み、腹の中が鈍く疼く。
普段なら一ヶ月先まで横になっているところだが、今は悠長に寝ている場合ではない。一刻も早く、あの怪獣をどうにかしないと、街が更地になってしまう。
「ぐぅぅ……!」
徐々に重い背中が浮き、腹と地面の間に空間が出来る。
何とか顔を上げると、今にも崩れそうなビルが目に入った。
最悪だ。
玄関の前に止まった車に、親子が取り残されている。
運転席の女性は必死に足掻いているが、ドアの開く気配は全くない。
どうも度重なる爆発のせいで、車体が歪んでしまったらしい。
「助けねぇと……!」
〈マスタード〉は足の裏から圧縮空気をブッ放し、無理矢理自分を撃ち出す。
地表と平行に伸びた白煙は、〈マスタード〉を車のボンネットに叩き込んだ。
「きゃぁ!」
激突した拍子にエアバッグが膨らみ、運転席の女性が仰け反る。
一瞬ヒヤッとしたが、後部座席の姉弟も含め、ケガをした様子はない。
「待ってろ……! 今、助けてやる……!」
〈マスタード〉はボンネットに手を着き、震えるヒザを伸ばしていく。
ようやく立ち上がると、ビルの屋上が派手に揺れるのが見えた。
もう猶予はない。
急いでバンパーを掴み、車を安全な場所まで引きずっていく。
相手は大人一人、子供二人を乗せた大物だが、想像以上に軽い。
これなら裁縫箱の入った段ボールのほうが、ずっと重かった。
「この辺なら大丈夫か」
念のため、多めに距離を取り、車を路肩に置く。
タイミングを図ったように地鳴りが響き、ビルの上半分が横に滑りだす。
あれよあれよと言う間にビルが崩れ落ちると、土煙が地表を薙いだ。
前後して、コンクリ片が、割れたガラスが降り注ぎ、瓦礫の丘を作り上げていく。もし車が最初の位置に停まっていたら、確実にプレスされていただろう。
「大丈夫?」
〈マスタード〉は軽く問い掛け、ヒビの入ったフロントガラスを覗き込む。
返って来たのは、短い悲鳴。
運転席の女性は膝を抱え、ひたすら顔を引きつらせている。
どうやら、恐怖に顔を歪ませることすら出来ないらしい。
……怯えて当然だ。
〈マスタード〉は自分に言い聞かせ、震える唇を噛み締めた。
軽々と車をレッカーするなど、人間業ではない。
おまけにボンネットに映る骸骨は、〈YU〉の返り血に塗れている。
嬉々として肉を食いちぎる姿は、さぞ恐ろしかったことだろう。なまじ人間が姿を変えた分、怪物の〈YU〉より不気味に感じられるのかも知れない。




