⑭NIN間を拒む深海
今回はまるまる深海に関する蘊蓄です。
相変わらずの民明書房っぷりですが、お楽しみ頂ければ幸いです。
どうやら、最近ブームらしい深海。
今年の夏(2017年)には、国立科学博物館で特別展が行われるようです。興味がある方は、足を運んでみては?
チケット売場で並びたくない方は、事前にチケットを買っておくことをオススメします。
「このままじゃ……取り込まれる……!」
〈マスタード〉は反射的に全身の口を開き、圧縮空気を噴き出す。瞬間、ジェット機ばりの風音が轟き、白煙が〈マスタード〉を包み込んだ。
たちまち身体が跳び上がり、背後の〈YU〉を吹っ飛ばす。同時に〈マスタード〉は上空へ飛び出し、背中から道路に落ちた。
「あいてて……」
乱暴に跳んだせいで、むち打ちのように首が痛む。
それでも、肉団子に吸収されるよりはマシだ。
〈マスタード〉は速やかに立ち上がり、左腕に絡み付いていた血管を引きちぎる。続いて激しく身体を揺すると、全身から黄緑の液体が飛び散った。
少しだけ装甲に残った液体は、綺麗な水玉を形作っている。何でもハスの葉を参考にした撥水加工で、水を弾いているらしい。
「そうだ、あいつは……!」
〈マスタード〉は慌てて振り返り、背後に目を向ける。
数分ぶりに外から見る肉団子は、マンション以上に肥大化していた。
だがまだまだ、増築は止まらない。
〈YU〉たちは互いを押しのけ、群がり、食い付き、際限なく肉団子と結合していく。
「……んだよ、アレ。まるでアンコウ目の『矮雄』じゃねぇか」
地球の約七割は海だ。
その表面積は、およそ三億六一〇〇万平方㌔にも及ぶ。
平均深度は約三八〇〇㍍と、一般に考えられているより遥かに深い。
この事実からも判る通り、全海洋の八〇㌫以上が、俗に「深海」とされる水深二〇〇㍍以深の海域に占められている。
その広大さとは裏腹、生物の数は少ない。
最大の理由は、およそ一〇㍍ごとに一気圧ずつ上昇する水圧だ。
言うまでもなく、水圧とは水中の物体に掛かる水の重さを指す。
海水の重さは、一立方㌢辺り一.〇三㌘だ。
たかが一㌘と侮ってはいけない。
潜れば潜るだけ、上にある海水の量は多くなる。
必然的に、水中の物体に掛かる重さも増えていく。
結果、水深六五〇〇㍍の世界では、一平方㌢辺りに六七〇㌔もの重さが掛かることになる。
日本が誇る深海潜水艇「しんかい6500」は、実際に水深六五〇〇㍍まで潜ることが出来る。この時、「耐圧殻」と呼ばれる球体状のコックピットには、実に九万㌧もの重さが掛かっていると言う。
並大抵の素材では、凄まじい重さに耐えられない。そこで「しんかい6500」の耐圧殻には、厚さ七三.五㍉のチタン合金が使われている。
表向き「しんかい6500」が潜れる深さは、水深六五〇〇㍍までとされている。その実、搭乗員の命を守る耐圧殻は、水深一万五〇〇〇㍍相当の水圧に晒されるまで壊れないと言う。
反面、直径は二㍍と、並の風呂場より狭い。
最大でも三人しか乗ることが出来ず、トイレや暖房もない。
二一世紀の科学力をもってすれば、宇宙に無人探査機を派遣することも出来る。あまつさえ、三億㌔も離れた小惑星から、微粒子を持って帰ってくることさえ可能だ。
だがそこまで科学の発達した現在においても、人間を深海に届けるのは難しい。現に水深四〇〇〇㍍以上まで潜れる有人潜水艇は、全世界に七隻しか存在しない。
調査船として最も深く潜れるのは、中国の蛟龍号だ。二〇一二年六月には、水深七〇〇〇㍍にまで達している。
凄まじい水圧の掛かる深海では、カップヌードルがおちょこのサイズまで潰れてしまう。
一〇〇度を超えた熱湯も、水深二〇〇〇㍍を超えた辺りから沸騰しなくなる。正確には液体でも気体でもない、「超臨界」と言う状態になるそうだ。
気圧の――空気の圧す力が弱い高地では、一〇〇度以下で水が沸騰する。例えば標高三七七六㍍の富士山頂では、九〇度以下で水が沸いてしまう。
深海は、これの逆パターンだ。
何でも高い圧力のせいで、水の沸点が上昇するらしい。
強い水圧に晒された生物は、簡単に押し潰されてしまう。
ではなぜ、深海の住人たちは平気なのか?
魚安の大将はこう言っていた。
水を張った風呂に、ペットボトルを沈めたとする。
中に何も入っていない場合、ペットボトルは少し潰れてしまう。
ところが、中が水で満たされていた場合、ペットボトルが潰れることはない。
これは一体、どういうことなのか?
原理が判れば、簡単な話だ。
風呂に沈めたペットボトルは、水の重さ――水圧に潰される。
パンパンに膨らませた風船を押すと、中の空気が手を押し返そうとする。
同様に風呂へ沈めたペットボトルも、水を押し返そうと力を働かせる。
中身が水で満たされている場合、この力は潰そうとする力と釣り合う。
押し返そうとする力と、潰そうとする力。
正反対の力は、互いを打ち消してしまう。
そのため、ペットボトルが潰れることはない。
実のところ、空っぽに見えるペットボトルも、内部は空気で満たされている。
この状態で水圧が掛かると、空気もまた押し返す力を働かせる。
ところが空気の押し返す力は、潰そうとする力に比べて遥かに弱い。結果、水圧を支えきれずに、ペットボトルを潰してしまう。
深海魚が潰れないのも、水で満たしたペットボトルと同じ理屈だ。
彼等の多くは、身体を体液で満たしている。
これが押し返す力を働かせ、水圧を打ち消しているそうだ。
同様の手法は、潜水艇にも使われている。
具体的には電池やモーターを保護する容器で、内部は電気を通さない油で満たされている。この油が押し返す力を働かせ、水圧を支えているらしい。
また深海魚が潰れずに済むのは、浮き袋を捨てたことも大きい。
魚は水よりも重く、そのままでは浮くことが出来ない。
そこで彼等は気体の詰まった浮き袋を浮き輪にし、沈むのを防いでいる。信じられないなら、切り身を風呂に入れてみればいい。絶対に浮かないだろう。
高い水圧の掛かる深海において、気体の入った浮き袋は空っぽのペットボトルに等しい。貧弱な気体は水圧を押し返せずに、本体の魚ごと潰れてしまう。
こういった事態を防ぐため、深海魚の多くは浮き袋を持たない。
それでも海底にへばり付かないのは、第一に泳げるから。
仮に重石を背負っていても、上に泳ぎ続ければ沈むことはない。
第二に、軽さがある。
浅い場所に住む魚は、肉や骨と言った重い素材で出来ている。
対して深海魚の身体は、油脂や水分と言った軽い素材で構成されている。そのため、比重が水に近く、浅い場所に住む魚に比べて沈みにくい。深海魚が妙にブヨブヨしているのも、普通の魚とは身体の素材が違うためだ。
この特性は、お魚大好きな人間に重大な問題を引き起こす。
深海魚の油脂には、人間の消化出来ない種類が少なくない。
こういったものを大量に食べると、簡単にお腹を壊してしまう。
特に油脂の多いバラムツともなれば、もう下痢では済まない。一度口にしたなら、身体中の穴と言う穴から油が染み出てきてしまう。
反面、味はよく、リスクを承知で口にする人も多いそうだ。




