飛べない天使 2
『カインへ。
元気にしてるの? 天界は特別に変わった事は何もない? 皆は元気にしてる? こんな事書くと、ますます会いたくなっちゃうね。止めとこう。……でも私はまだ平気よ。
そうそう、この間ね、機会があってちょっと遠出したの。他の神官の人たちと一緒だったんだけど……ねえ、どこに言ったと思う? カインも懐かしいと思う場所よ。
そう! カザールなの! ロヴァルにも会ってきたわ。海賊はやめて猟師になってたんだけど元気そうだったし、それに凄く幸せそうだった。何とね、セレスティアの魂を持ったティアっていう女の人と結婚してたの。詳しい事は手紙じゃ書ききれないから、いつか話すわ。
それから、フィネス村のあった荒野に一輪の花が咲いたの。これってカインが天界でがんばってる証拠よね。見つけた時、凄くうれしかった。私も、もっともっとがんばらなくちゃって思って』
くしゃりと手紙を丸めて、シェリルはそれを集めた落ち葉の上に投げ捨てる。昨夜何気に書いた手紙だったが、一日も経つとそれはひどく意味のない恥かしい代物へと成り果てていた。
「手紙なんて書いても意味ないし……」
ぽつりと呟いて、シェリルは枯葉と一緒に手紙にも火を点ける。
「でもいいの。自己満足したかっただけなんだから」
みるみるうちに燃えていく手紙に向かって言い訳もどきの言葉を投げかけると、ふうっと一息ついてからゆっくりと立ち上がった。
「大聖堂の掃除は終わったし、中庭の掃き掃除も終わったし」
指をひとつひとつ折りながら自分に課せられた仕事を確認して、シェリルは満足したようにうんと一回だけ頷いた。とりあえず今日の仕事は全部終わった。落ち葉を燃やしている火も、太陽が西に隠れるまでには消えるだろう。今日も夕食までに一時間弱の、空いた時間を手に入れた。
そうやって毎日手早く仕事を終了させ、シェリルは空いた時間に月の塔へと赴くのが日課となっていた。何かをしに行く訳ではなかった。ただあの場所が天界に一番近いような気がして、そこに行けば天界へ行けるような気がして、シェリルは無駄だと分かっていても淡い期待を胸に月の塔へと足を運ぶのだった。
落ち葉を燃やす小さな火が、冷たい風に吹き消される。肌を刺す冷気に体を丸めて、シェリルは夕闇に包まれ始めた薄暗い空を見上げた。
「……雪、降るかな」
呟いた言葉は、再度強く吹きぬけた北風に攫われて行った。
シェリルが下界へ戻ってから、三度目の冬が訪れようとしていた。
自分の体さえ見えない暗闇にいた。
足を踏み出せばそのまま果てない闇へと落ちてしまいそうで、シェリルはそこから一歩も前に進む事が出来なかった。
「どうしたんですか? シェリル」
ふいに聞こえた懐かしい声に、シェリルは慌てて横を見る。闇の中に、ルーヴァがいた。不思議そうな顔をしてこちらをじっと見つめるルーヴァに、シェリルはなぜか一言も喋る事が出来なかった。必死に唇を動かしても、そこから声が出る事はない。そんなシェリルにいつもの微笑みを向けて、ルーヴァが一歩前へ進み出る。
「行かないんですか? 置いていきますよ?」
歩き出したルーヴァの後ろ姿に手を伸ばし、出ない声で何度彼の名前を呼んでも、ルーヴァは一度もシェリルの方を振り向きはしなかった。
「まったく、本当に情けないわね」
呆れた口調でそう言ったリリスが、シェリルの横をすっと通り過ぎていく。
「気分が悪いなら少し休んでから来ると良いわ」
一緒に行くと無音で叫んだシェリルを無視して、セシリアもルーヴァやリリスたちの後を追うように闇の彼方へ消えていく。
「ここにいては危険だ。行くぞ、シェリル」
緊迫した声で告げたアルディナまでもが、動けないシェリルを置き去りにして走っていく。指先さえ見えない闇の中で消えていく仲間たちの姿を見つめながら、シェリルはひとり無様に立ち尽くすしか出来なかった。
足は動かず、声も出ない。シェリルのそばには誰もいない。たったひとりで取り残され、シェリルは何もない闇の中を永遠に彷徨い続けるしか道はない。
「何だ? 置いてかれたのかよ。相変わらずだな」
闇の彼方を呆然と見つめていたシェリルの真横に、カインがいた。呆れたような眼差しの中に、いつもの不器用な優しさが垣間見える。
「……カイン」
声は自然と唇を割って出た。さっきまで石のように固まっていた両足がすんなりと動き、シェリルはそのままカインが歩き出す前に彼の体に力いっぱいしがみ付く。
「カイン、行かないで!」
「何泣いてんだよ。ほら、しっかりしろ。お前が落ち着くまで、俺はどこにもいかねぇよ」
「本当?」
確認するように上を見上げたシェリルの瞳の中で――カインの姿がぐにゃりと歪んだ。歪んで、そのまま砂のようにざあっと一気に崩れ落ちる。
シェリルはまた、闇の中でひとりきりになってしまった。
弾かれたように勢いよくベッドから飛び起きた。胸は激しい鼓動を繰り返し、呼吸もひどく乱れている。
内容はよく覚えていなかったが、とても悲しく不安な夢を見ていた事だけは容易に理解できた。呼吸を整え、額に張り付いた髪を払いのけて、シェリルは大きく深呼吸を繰り返す。それでも一度上がった体温は簡単に消える事はなかった。
「……不安……なのかな。やっぱり」
ぽつりと呟いて、胸元で揺れる羽根の首飾りをきゅっと握りしめる。カインの代わりでもある白い羽根にそっと口付けて、シェリルは羽根についた小さな紫銀の石を指でなぞってみた。
「こんなにも近いのに、凄く……遠い」
口にした言葉をすぐに首を横に振って否定し、少しでも弱気になった自分を自分で戒める。
ベッドから抜け出して火照った体を冷まそうと窓を開けたシェリルは、真っ暗な夜の世界にただ一色だけを落とす雪の乱舞に驚いて目を見開いた。音もなくただ静かに降り積もる闇夜の雪は、それだけで幻想的な輝きを放っている。白と黒。光と闇に似た静かなる夜の円舞曲に、シェリルはうっとりと目を細めて暫しの間惚けたように見惚れていた。
「綺麗……」
窓枠に手をついてもう片方の手を外に伸ばして、手のひらに雪を拾い集める。シェリルの熱で瞬時に溶けて消える様は泡沫の夢のようで、シェリルは無意識のうちに過去の情景を脳裏に思い描いていた。
初めて会った時のカインの姿に驚いた事。その後、勝手にシェリルのベッドに潜り込んでいたカイン。思えば初めはいつも口喧嘩していたような気がする。
それが、いつからだったのだろう。こんなにもカインの事で胸の中が占められるようになったのは。よくは分からないけど、でも多分出会った時から惹かれていたのだと思う。
「天界でも降ってるかな」
同じ雪を見ているのだろうかと、心の中で問い掛ける。胸が少しだけ痛んだが、シェリルは深呼吸でかすかな痛みを押し戻し忘れようとした。
冷たい風が吹き、シェリルの体を一気に冷ます。部屋の中の温度がぐんと下がった事を肌で感じて、シェリルが小さく体を震わせた。闇夜の雪をもっと見ていたいのが本音だが、このまま一晩中窓を開け放して風邪を引くわけにもいかない。最後にもう一度だけ舞い落ちる雪を見上げてから、シェリルは外に出していた片手を部屋の中へと引き戻した。
――――その手のひらに、一枚の白い羽根が乗っていた。
「……え?」
首飾りの羽根だろうかと胸元へ目を落としてみるが、そこにはちゃんとカインから貰った羽根の首飾りが揺れている。
はっとして視線を窓の外へ戻したシェリルの、その見開かれた翡翠色の瞳が捉えたのは、夢のように不確かで甘い信じられない光景だった。
「……うそ」
自然と声が漏れて、シェリルは思わず自分の口を両手で覆う。
闇夜を彩る雪に紛れて、純白の羽根が幾つも幾つも宙を舞っていた。
雨のように降り、僅かな風の流れに乗って揺れる羽根の乱舞。そのうちのひとつがシェリルの頬を優しく撫でて、地上へと舞い落ちる。
空のはるか彼方で――――懐かしいムーンロッドの鈴の音が響いたような気がした。
ばさり、と何かが羽ばたく音が響く。その度に闇に降る羽根は数を増し、シェリルの視界を更に白く染め上げる。意識が現状を把握するよりもはるかに早く、シェリルの心は「それ」を感じて溢れる思いを涙と一緒に弾き出した。
「……――――カインっ!」
愛しい名を呼んで空を見上げると同時に、シェリルは広げた両腕の中にずっと待ち続けた確かな温もりを抱き締めた。応えるように背中へと回された力強い腕に、シェリルの心が激しく震える。
夢でも幻でもないカインの熱は、いつまでも消える事なくシェリルの体を優しく強く抱き締めていた。
「……お帰りなさい、カイン」
涙で濡れた顔に笑顔を戻して、シェリルが幸せを噛み締めるように目を閉じる。その拍子に滑り落ちた涙を指先で拭い去って、カインはそのままシェリルの頬を大きな手のひらで包み込んだ。
「ただいま。……もう、ずっとお前を離さないからな」
「……うん」
頷くシェリルにいつもの見惚れるくらいの笑みを向けて、カインはそっとシェリルの耳元に唇を寄せる。そして変わる事のない思いを込めた、永遠の魔法をシェリルにかけた。
――――愛してる。
その瞬間。
カインの背中に大きく広げられていた二枚の翼が、役目を果たし意味を失ったかのように一気に弾け飛んだ。
闇に軌跡を残す羽根の雨に包まれて、カインはここから新しい道を歩き出す。その隣では、シェリルがいつまでも変わらない笑顔を向けて、カインにそっと寄り添っていた。
はるか昔。
天と地を翻弄した激しい戦いがあった。天地大戦と呼ばれるこの戦いで光に破れ封印された闇の王は、長い時を経て再び甦り、この地を暗黒の闇で支配しようとしていた。
邪悪なる闇の王に立ち向かったのは、女神の力を受け継ぐひとりの落し子。彼女は世界だけでなく、闇に操られていたかつての地界神をも、その慈愛の光で救い出した。
のちに落し子はあるべき場所へと戻り――――地界神は罰として翼を無くし堕天したと伝えられている。
真実はどうか分からない。けれどこの物語は、天界の星の宮殿に巨大壁画として今も大切に保管されている。
その壁画の隅には、仲良く寄り添う一組の男女が、小さく丁寧に描かれていた。




